葉室麟の遺作となった。「(国を守ろうと思った西郷・橋本左内の志)それは天を翔けるような志であったに違いない。春嶽もそんな志を持った。・・・・・・しかし西郷は志を捨てぬまま世を去ったのだ。そう思うと春嶽の目から涙があふれた。・・・・・・明治23年、松平春嶽逝去、享年63」・・・・・・。本書はそう締められているが、葉室麟の死を思った。幕末から明治新政府、ずっと要職に就いて苦難を生きてきた松平春嶽。「破私立公」の人であるか否か。救国の思い、大きな志をもった男か「私」に立つ人か。春嶽はその観点から真の友を選び友を得た。見識と謹直と温和、絶妙のバランス感覚をもつ春嶽だからこそ、激震の時代の中枢にいる人の信頼を得た。阿部正弘も、水戸の徳川斉昭も、島津斉彬も、熟友の山内容堂も、そして横井小楠、勝海舟、坂本龍馬、西郷隆盛も春嶽に信頼を寄せたが、彼は徳川慶喜らに危うさを観た。
春嶽は大政奉還を早くから構想した。「徳川家の私政から脱却させ、公の政を行う」「安政の大獄で冷え切った朝廷との関係を修復し、公武合体によって国難に立ち向かう」「開国派と尊攘派が手を携えて国難にあたる挙国一致体制をつくる」――。常に変わらぬ一念が幕末の混乱のなかでも貫かれた。
しかし、「大政奉還、王政復古にいたる流れでは、実権は島津久光を始めとする春嶽や容堂らいわゆる賢候にあったが、新政府成立後、志士上がりの官僚たちが、すべては自分たちの功績であったかのように主張していく」「いずれにしても明治初年に尊攘派以外の政府要人はしだいに遠ざけられ、その後、明治維新は尊攘派による革命であったかのように喧伝されていく」のである。
激震の幕末を、その中枢にあった松平春嶽から描く思いの込められた歴史小説。幕末の四賢候とは、松平春嶽、山内容堂、島津斉彬と宇和島の伊達宗城。
平尾誠二と山中伸弥「最後の一年」――。最も厳しい状況のなか、心が本当に通った関係だったことが、あふれている。
表紙にラグビーボールを共にもった写真が出ている。「人生はラグビーボールと同じ。楕円形のボールはどこに転がっていくかわからない。しょうがないやないか」「世の中には理不尽なことがたくさんある、というのが僕の持論」「ラグビーボールが今も楕円形なのは、世の中というものが予測不可能で理不尽なものだから、その現実を受け入れ、そのなかに面白みや希望を見出し・・・・・・」と平尾さんは語り、「しゃあない、こんなこともある。でもなんとかなるわ」と理不尽な経験をポジティブにとらえる。二人の友情と対話。互いに全身で刺激し、支え合い、共鳴盤を打ち鳴らした強くすがすがしい世界が描かれる。
「技術革新と倫理観」では、技術革新とともに、「その時、暴走をコントロールするために必要なのが人間の倫理観というか、本当の意味での人間の力なのではないか」という。
ナイスガイの二人。波長があい噛み合った二人。素晴らしい。
15日、千葉市で行われた党千葉県本部(富田茂之代表)の「新春の集い」に出席。これには森田健作県知事をはじめとする全県の市町村長、自民党の櫻田義孝連合会長、齋藤健農水相などの国会議員、県会議員、市町村会議員、各界の代表など多数の方々が出席、大変盛大でした。
私は、「公明党は太陽の党、旭日・千葉はその牽引力だ」「公明党は『日本の柱・公明党』『大衆福祉の公明党』を掲げ立党した。今、政治のメインテーマが全世代型社会保障となっている。公明党はさらに子育て支援、教育支援、高齢者支援に頑張っていく。全ての人に太陽が平等に注ぐように、希望を与え、未来を照らすエンジンとなる」などと挨拶をしました。最後まで多くの方々と名刺を交換、懇談しました。勢いのある「新春の集い」となりました。