「南洲翁遺訓」は庄内藩の関係者が西郷から聞いた話をまとめたものだ。庄内藩は"鬼玄蕃"として官軍も怖れた酒井玄蕃の下で無敗を誇ったが、奥羽越列藩同盟の崩壊に伴い、降伏する。その時、厳しい処分を覚悟していた庄内藩を寛大な処置によって救ったのが西郷であった。「西郷南洲先生を守れ」――玄蕃の遺言(明治9年2月5日逝去)でもあった。薩摩と庄内との深い絆である。
明治6年の政変。西郷等は征韓論争(西郷はむしろ遣韓論、征露論)に破れる形で追い落とされる。7年には俊才・江藤新平等による佐賀の乱が起きる。岩倉・大久保・木戸等の明治4年からの遣米遣欧使節団は、西郷・江藤等の留守政府の目覚ましい成果に焦る。国難に結束して戦おうとする西郷等と、私心を払拭できない大久保等の亀裂は一気に広がっていく。士族の不満は充満していく。「今の政府はおかしい。正気を取り戻さなければならぬ」「薩長土肥、それも一握りの者だけが贅沢三昧」「美し皇国を不潔な連中に勝手にさせるな」「奸臣を討ち、もって民の疾苦を救う」「維新のやり直し、第二維新を始める」「君側廓清、政体一新」――。その神輿が西郷となっていく。徹底的に「士族を潰す。武士を潰す」とする大久保、「敬天愛人」の西郷。「鳥羽伏見で止めるべきだった。戊辰の役まで進んだのが間違いだった。結果として勝者と敗者が生まれ、敗者には恨みが残り、勝者にも怯えが取り憑いた」「始めなければならないのは、勝たないための戦いだ」「道に外れた維新を終わらせる」「一(一蔵)よ、天下のこつで勝ち負けついたら、いかんでごわすよ」と西郷は思う。そして西南戦争で西郷は自決する。その時、庄内鶴岡はどうしたか。「この庄内鶴岡だけには武士が残る。国難に当たる者として」――西郷の遺訓を庄内鶴岡がまとめた。庄内藩の沖田総司の甥・沖田芳次郎の生きざまを通して明治の序章の激動、西郷と大久保を描く力作。