藤沢周平が描くのは市井の庶民、下級の武士たちである。英雄、英傑ではなく、「暗い宿命のようなものに背中を押されて生き、あるいは死ぬ」「負を背負い、世の片隅でもがく人」たちだ。しかしまた、単に平凡に穏やかに生きて死ぬのではない。挫折を繰り返すが意地がある。一矢報いようと心の奥底に小さいが消えることのないマグマをもつ粘り強い人々である。高尚とも思われる俳諧師とは真逆で、貧しさのなかをしたたかに"俗"を生き抜いた一茶はそういう人物だ。「やせ蛙まけるな一茶ここにあり」である。
小林一茶は1763年(宝暦13年)北信濃の北国街道柏原宿(長野県上水内群信濃町大字柏原)の農家に生まれる。名は弥太郎。3歳の時に母を亡くし、継母には冷たく扱われ、長男であるにもかかわらず15歳で江戸に奉公に出される。「我と来て遊べや親のない雀」だ。いつ頃からか二六庵竹阿の葛飾派の門人となるが、俳諧師として食える訳もなく、豪商・夏目成美の庇護を受ける。貧乏生活だ。「秋の風乞食は我を見くらぶる」である。望郷の念はあるが、一茶の名のごとく(さすらいの身で茶の泡のように消えやすい者)、身を立てているわけでもなく、帰っても居づらい。義弟・仙六との遺産争いが長期化し、悪どい手法は醜いほどだ。
50歳の頃は故郷に帰り、結婚もするが、生まれた子供も次々に死に、58歳の頃には脳卒中で半身不随、妻まで病死する。再婚を二度するが、中風もちの老人の悲哀は悲惨でさえある。「是がまあつひの栖か雪五尺」だ。65歳で死ぬ。「2万句じゃぞ。日本中さがしても、そんなに沢山に句を吐いたひとはおるまい」――藤沢周平は一茶にそう語らせて本書を結んでいる。「わしはの、やお(最後の妻)。森羅万象みな句にしてやった。月だの、花だのと言わん。馬から虱蚤、そこらを走りまわっているガキめらまで、みんな句に詠んでやった。その眼で見れば虱も風流、蚊も風流・・・・・・」「誰もほめてはくれなんだ。信濃の百姓の句だと言う。だがそういうおのれらの句とは何だ。絵にかいた餅よ。花だと、雪だと。冗談も休み休み言えと、わしゃ言いたいの。連中には本当のところは何も見えておらん」・・・・・・。意地、自負、自嘲、ひがみ、鬱懐、疲労、すね・・・・・・。「よろよろは我も負けぬぞ女郎花」「やれ打つな蠅が手を摺り足をする」・・・・・・。「人間がうとましくなると、物言わぬ動物や草木が好ましくなった」と開き直った一茶は自然と人間を詠みまくった。