孔丘  宮城谷昌光著  文藝春秋.jpg論語に描かれる"神格化"された孔子ではなく、不運や失意、失言や失敗もあった孔丘という人間の波瀾万丈の生涯を書いた大河小説。構想して20年、意を決して70代になった宮城谷さんが力業で書き上げた。「十五歳で学に志した孔丘は、休んだことがない。この死は、孔丘の生涯おける最初の休息であった」と結んでいる。「子曰く、学びて時にこれを習う、亦た説ばしからずや――これが、いつ、どこで、いわれたのか、・・・・・・わからない」と「あとがき」で孔子を小説に書くことの難しさを語るが、私も宮城谷さんも、この言葉からとった時習館高校の同窓生、1学年違いだ。

「子曰く、吾十有五にして学に志す。三十にして立つ。四十にして惑わず。五十にして天命を知る。六十にして耳順う。七十にして心の欲する所に従いて矩を踰えず」という言葉が、孔丘の人生そのものであることが活写される。父が孔丘三歳で亡くなり、母は孔家を去る。武勇を烈しく憎む母の本心、「十五歳になったとき、自分はけっして武人にはなるまい、学問で身を立てるべく懸命に学ぼう」という立志だ。三十歳を迎える時、「官から辞去し魯の曲阜に教場をひらく」ことを決断をする。妻は離婚を告げ、息子・鯉との対立が始まる。四十の不惑は「周文化がもっともすぐれていると確信したことにほかなるまい」。魯国から斉に亡命していた孔丘に「陽虎が内戦に敗れて、陽関の邑に逃避した」との報せが入る。「このとき五十歳の孔丘は、天に想像を絶する力があることを実感する」「斉を去り、魯に帰るべし。天が孔丘にそう命じている」と天命を知るのだ。「魯を文化国家にする。それを魯だけでなく天下の人々にみせる」――。しかし、理想の国づくりは困難をきわめる。そして再び魯国を去ることになる。五十五歳から十五年近くにわたる亡命生活があり、魯に帰国がかなうのは六十八歳であった。「六十歳の耳順は衛国の実情を観て大いに失望し、天命をより強く意識。どんないやなことでも、天が命ずることであれば順っておこなう」ことだという。七十歳は「自由自在を得たということであろう。・・・・・・七十歳でこういう心境に達した、という精神の推移を述懐したともとれる」という。

弟子との同志的結合には凄味がある。師弟は天の下での縁である。苦難に遭遇した時に発せられた言葉が「論語」となるが、それが苦難に直面する弟子にとって生き生きとした闇を打ち破る「希望」「光」であったことがよくわかる。机上の単なる名言ではないのだ。師弟の一体――仲由(子路)、漆雕啓、閔損、子説、顔回、冉耕、冉求、端木賜(子貢)・・・・・・。「いまだに孔丘の生年が確定しないのはふしぎであるが、非家の私としては、以前は信じなかった司馬遷の説を採って、孔丘が紀元前五五一年に生まれたとした。それが自分なりの割り切りである」(あとがき)を読んでも、いかに春秋時代の魯、斉、衛、宋、曹、鄭、周、晋、呉等々の攻防と人を調べ抜いて書いた小説かと、感動する。孔丘の人生の一本の筋がくっきりと見える。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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