明治維新の意味.jpg明治維新とは何だったのか。「絶対主義の確立」とか「ブルジョワ革命」などと捉える論調もあったが、「マルクス主義のカテゴリーにあてはまらない民族革命であり、西洋の脅威に直面した日本が、近代化を遂げなければ独立を維持できないと考えて行った革命であった」(吉野作造の継承者・岡義武)を引きつつ、北岡さんは「要するに維新から内閣制度の創設、憲法の制定、議会の開設に至る変革は、既得権益を持つ特権層を打破し、様々な制約を取り除いた民主化革命。自由化革命であり、人材登用革命であった」という。さらに「明治維新のキーワードは公議輿論だった。江戸時代に発言できなかった者が発言し、‥‥‥私的な利益は度外視して国益だけを考えて、ベストの議論を取る。それが大久保の言う公議輿論だった」「明治維新以来の政治で最も驚くべきことは、日本が直面した最重要課題に政治が取り組み、ベストの人材を起用して、驚くべきスピードで決定と実行を進めていることである」という。政治が「制度化」され、リーダーが「セクショナル・インタレスト」に陥り、政治のダイナミズムを失っているとの現代政治への眼は鋭く、本質を剔る。そこに「明治維新の意味を問う」という"意味"があると思う。

ペリー来航、阿部正弘の開明官僚の抜擢、桜田門外の変と公武合体路線、大政奉還、公議政体と王政復古、五箇条の御誓文、版籍奉還、廃藩置県‥‥‥。「明治4年に断行された廃藩置県こそは、維新革命の性格を決定づけ、またその後の方向を決める最も重要な決定であった」「島津久光は激怒する。西郷の引き出しと久光の説得は難題だった。(大久保は)この問題のために、実に渾身の努力をしていたのである」と大久保の志をもった戦いを讃える。公議輿論、明治の精神だ。

大村益次郎の抜擢と徴兵制度、地租改正、電信・電話・鉄道や教育の整備、岩倉使節団、そして征韓論‥‥‥。「自分を慕う仲間を裏切ることなく、しかし同志である大久保の国家建設を妨害することもなく、戦士の同胞の思い出のなかに死んでいくことが、西郷の希望であったと私は考える。これは政治的人間である大久保と、非政治的・宗教的人間である西郷の決定的に違うところであった」という。征韓論から西南戦争に至る難局。大久保は「行詰りとなったならば、万難を排して踏破するなり、または迂回するなり、臨機に適当な手段を用いなければならぬ。其処で静定の工夫を回らしたならば、必ず何処にか活路が見出されるものである‥‥‥」と語ったという。そして大久保の死、自由民権運動と明治14年政変、朝鮮問題と条約改正、明治憲法の制定、官僚制度の整備、天皇大権の強大、超然演説と議会政治の定着、元老から政党へ、政治の制度化と合理化‥‥‥。

「明治維新を再検討してみて、もっとも印象的なのは‥‥‥日本が直面した最も重要な課題に、最も優れた才能が全力で取り組んでいたということである。‥‥‥その国が直面する最も重大な課題に、最も優れた才能が全力で取り組んでいるかどうかが、決定的に重要だと痛感している」と結び、現代政治への警告を発している。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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