江戸から離れた地方の神山藩で、農民の管理や徴税などを扱う郡方(こおりがた)を務める髙瀬庄左衛門。五十を前にして妻・延を亡くし、息子の啓一郎も突然、崖から落ちて死んだ。息子の嫁・志穂とともに、寂寥を抱え込みながら生きてきた。二人をつなぐのは庄左衛門が手慰みに描く絵で、志穂も絵を始める。そんな時、「領内に不穏な動きあり」との投げ文。そして隣村の百姓と浪人が藩に強訴し、かつ庄左衛門が管理している藩の穀倉ともいうべき新木村を襲うという大事件が勃発する。その背景には藩に渦巻く政争があった。静謐にして厳と生きる庄左衛門の姿が、そしてひそやかに心を寄せる志穂の姿が、抑制的であるだけによりいっそう美しく迫る。
喧噪の現代とは異なり、江戸時代の地方の藩に流れるゆったりとした時間。朝が明け、人々が動き始め、仕事に精を出し、日が暮れる。静寂と静謐、風のかすかなそよぎ、光のきらめきと陰、木漏れ陽の美しさ、蝉しぐれ、人の気配、女の揺れる声、揺らめく灯、ゆるやかな弧を描く山の稜線。そして生老病死、日々に訪れるかすかな喜怒哀楽、心にとどめおいた過去のしがらみや記憶・・・・・・。丁寧に美しく自然と人心を描く。巧みな文体、描写は時代小説らしい余韻を漂わせ、老武士の誇りと襟度を際立たせる。世を"明らかに観る"諦観の定置の重さを感じさせる。