幕末から明治にかけて異能ぶりを発揮した"画鬼"・河鍋暁斎を父に持った娘・暁翠(とよ)の苦難の人生。"画鬼"の軛から逃れられない絵師としての人生を描く。河鍋暁斎は、天保2年(1831年)に生まれ、明治22年(1889年)に没した。狩野派の流れを受けているが、他の流派・画法も貪欲に取り入れ、鯉などの写生だけでなく、火事でも"生首"でも徹底して写生。浮世絵をはじめ戯画や風刺画と、自由奔放、徹底して描き切るまさに"画鬼"。絵師として育てられた娘のとよ、そして腹違いの兄・周三郎(暁雲)にとっては、あまりにも巨大で奔放な"画鬼"暁斎の"狂"の影に死後も翻弄される人生を余儀なくされた。愛憎共存どころか、兄・周三郎には"憎"と"反骨"のマグマが充満し、とよに難癖をつける日々が続いた。加えて明治の後期は、日本の近代化のうねりが怒涛となって日本画壇にも押し寄せ、暁斎の画風を受け継ぐ者には厳しいものとなった。
早くして養子に出された弟の記六は頼りなく、妹のきくは病弱で、若くして死んでいく。支えてくれた真野八十吉、八十五郎の父子、鹿島清兵衛らも、激変する時代と自らの"業"に翻弄されていく。
「生前の暁斎は、世の名声には目もくれなかった。だがそれは己の絵に対する激しい自負ゆえであった。・・・・・・この世のあらゆる光景を描こうとした父は、死にゆく己すらを描いて息絶えた。周三郎は父と同じ死病に取りつかれたことを誇り、一人此岸に残るとよを嘲った。画鬼の家の住人として生き残るならば、自分よりも兄の方がふさわしかったはずだ。二人の没年に近づいてもみると、それにもかかわらず、父と兄の絵が顧みられぬこの世に、老いた自分だけ留まっている事実が、何やら申し訳なくすら感じられた」「自分は父の絵を守りたいわけではない。ただ自分と兄を画道という獄(ひとや)に投げ入れた画鬼に、愛憎乱れた矢を一矢でも報いんとしているだけだ」「自分は父と兄について話さなければならない。・・・・・・小器用、結構。猥雑戯狂、大いに結構。それこそが暁斎が描き続けた絵の真髄であり、自分と周三郎がついに届かなかった高み。そして自分たちの足元に灯り続けた、たった一穂の灯だ」・・・・・・。
家族、兄弟、そして何よりも師弟の志の絆は続く。