物語は極めてシンプル。しかし、帯にあるように主人公の語り(青山文平さんの語り)、そのリズムに酔う江戸の街の感動作。
一季奉公を重ねて42歳にもなった男――。一万石を超える貧乏藩の江戸屋敷。そのお手つき女中・芳の二度と戻れぬ宿下がりの同行を命じられる。芳は殿様を退かされた老公(といっても今21歳)に底惚れしており、男はまた密かに芳に想いを寄せていた。同行する2人。初めての極楽を味わったその夜、芳は男を刺し、そのまま姿を消す。「俺の腹に突き刺さった匕首」「お殿様を笑い者なんかにさせない」「芳は百姓の嫁に収まるつもりになんぞ毛頭ねい」・・・・・・。「すんげえなあ、芳は。あんなすんげえ女に終わらせてもらえて。ありがたさが染みいる」のだが、男は一命を取り止めてしまう。
男は「芳は自分が人を殺したことを信じ込んでいる」「人を殺めていないことを芳に伝えたい」「芳はどっかの岡場所に沈んでるんだろう」と懸命に生き、やがて江戸の岡場所の顔になる。ひたすら芳を探し、待つのだ。それを助ける銀次、かつての大名屋敷で働いていた下女・信。銀次が抱えたもの、信が持ち続けた底惚れ。貧しい江戸庶民の姿、その心に沈潜する一途の愛が、感動的に浮かび上がる。