rannse.jpg「何ゆえ山名家は没落の途を余儀なくされたのか。幕府の累代管領、栄達と権勢を渇望した者たちの私欲に巻き込まれ、振り回されてきたからだ」「信長には天下布武の大志があった。天下に静謐をもたらし、武王の徳政を布く。・・・・・・翻って羽柴はどうだ。立身出世も結構だろう。では何を志すがゆえの栄達なのか。それに対する答えを、恐らく羽柴は持たない」――。

足利幕府の名門と崇められた山名家。12代目・山名宗全が応仁の乱を起こし凋落を始める。その90年後、時は戦国時代間近。かつて治めていた分国も次々失われ、今となっては但馬と西隣の因幡を家領に残すのみとなっていた。この苦境を撥ね退け、中興との願いを当主・伯父の裕豊の下で育った山名豊国は託せられる。

しかし、織田と毛利の二大勢力に挟まれ、どちらにつくかで、裏切りを繰り返す。但馬衆や因幡衆の手前勝手な不平・不満・反発を戒められず、国はますます混乱していく。尼子の残党(山名鹿之助ら)の生き残り戦略、秀吉の策謀等々、ついに山名家は潰れる。まさに東西の攻防激しき地、因幡、但馬、播磨、摂津の武将はいずれも苦難の歴史をたどることになる。

そして秀吉に"名門"であることで身を寄せることになった山名豊国だったが、家康から声をかけられ、将棋相手となるなど心を打ち明けるほど昵懇となる。秀吉の死、関ヶ原、二度の大坂城攻めによる豊臣滅亡、家康の死・・・・・・。禅高入道・山名豊国は乱世の終わりを見届ける"役目"(我が生、定数あり)を終え、寛永3(1626)79の生涯に別れを告げた。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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