dokuso.jpg1941年6月22日、第二次世界大戦の独ソ戦が開始される。ナチス・ドイツとその同盟軍は、独ソ不可侵条約を破ってソ連に侵攻した。数百万の大軍が激突したこの戦争は、第二次世界大戦の主戦場(東部戦線)であり、北はバルト海から南は黒海、バルカン半島、コーカサスに至るまでの実に数千キロにわたるスケールといい、非戦闘員を巻き込んだ死者数といい空前絶後。数字自体が不明だが、現在では第二次世界大戦でのソ連の死者数は2700万人、ドイツは830万人にも及ぶという。とくにそれが戦闘して和平に至るという通常戦争ではなく、収奪戦争となり、根本は絶滅戦争であった。人種的に優れたゲルマン民族が、「劣等人種」スラヴ人を奴隷化するための戦争、ナチズムと「ユダヤ的ボルシェヴィズム」との闘争と位置づけた「世界観戦争」「絶滅戦争」とし、一方でスターリンのソ連は、ファシストの侵略者を撃退し、ロシアを守るための「大祖国戦争」と規定したのだ。結果は当然、仮借なき残酷な絶滅戦争となる。本書は戦後の独ソそれぞれの総括(ドイツはヒトラーに全ての悪を押し付けようとし、ソ連は祖国を守り抜く戦争だとし、双方に展開されたジェノサイド、収奪、捕虜虐殺の惨劇、戦略・戦術の誤りを歪曲した歴史修正主義に立った)を正し、その戦いの本質を剔抉している。2020年、評判を呼んだ新書大賞だが、今回、「同志少女よ、敵を撃て(逢坂冬馬著)」に刺激されて、改めて読んだ。戦争の構図が鮮やかに描き出されていて、目が覚めるようだ。

ナチ・イデオロギーの人種主義と軍備拡張と不況・財政危機は領土拡張政策となり、戦争へと突き進む。「ナチス・ドイツは独裁者ヒトラーの『プログラム』とナチズムの理念のもと、主導的に戦争に向かうと同時に、内政面からも資源や労働力の収奪を目的とする帝国主義的侵略を行わざるを得ない状態に追い詰められていた」「ヒトラーは東方植民地帝国の建設を戦争目的に据えていた」「ヨーロッパ・ユダヤ人の絶滅は、ヒトラーの人種イデオロギーが動因といわれるが、最初からユダヤ人の絶滅を企図していたのではなく、国外追放が失敗した結果、政策をエスカレートさせていった」「スターリンは開戦当時、全く警戒措置をとっておらず、ソ連軍はスターリンの将校大粛清によって弱体化していた」「ヒトラーは、弱体化しているソ連軍など鎧袖一触で撃滅できると考え、当初はそのとおり進んだが、バルバロッサ作戦直後から頑強に戦うソ連兵に消耗し、補給端末との距離も遠ざかるばかりとなった」「スモレンスクの戦いは、モスクワ会戦やスターリングラード攻防戦、クルスク戦車戦に並ぶほど重要性をもつターニング・ポイントとなった」「南部ロシアの工業・資源地帯、コーカサスの油田といった経済目標を重視するヒトラーと、政治的・戦略的な目標である首都モスクワの奪取こそ勝敗を決すると信ずる陸軍の対立があった」「真珠湾攻撃の知らせを聞いたヒトラーは、1941年12月11日、米国に宣戦布告。ヨーロッパの紛争から世界大戦となった」「ソ連には当初、スターリンへの嫌悪が激しかったが、『ドイツの占領者どもに死を』とのナショナリズムと共産主義の擁護が融合し、民衆も反撃に立ち上がった。それが独ソ戦を凄惨なものとした」「スターリングラードの敗北、ドイツ軍は戦略的攻撃能力を失った」「ムッソリーニもソ連との和平をヒトラーに訴え、日本も他の同盟国も和平交渉を働きかけ、リッぺントロップも戦争継続と和平とのあいだで動揺したが、絶対戦争を貫くヒトラーは変わらなかった」「戦後を睨んだスターリンは、ドイツを徹底的に打倒することを前提として、中・ 東欧の支配を米英に認めさせようと勢力圏を西に拡大しようとした」・・・・・・。

そして、ドイツ国防軍は、1944年6月6日のノルマンディーで敗れ、呼応したソ連軍の大攻勢が行われ、1945年1月12日、ドイツへの侵攻作戦が開始された。ヒトラーは4月30日、自殺する。本書は終章として、今もなお独ソのみならず、この独ソ戦の悲惨な歴史が「『絶滅戦争』の長い影」となっていることを語り、結ぶ。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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