kannsennsyou.jpg生老病死のなかでも身近にある「病」。「病」に対処しようとした時、文学や哲学はどう役割を果たしたのか。また文学と哲学はいかに「病」の影響を受けてきたのか。「病と宗教」「病と哲学」「疾病と世界文学」、そして「医学と文学」が描かれる。ギリシャから今日に至るまで、まさに古今東西、全てと言っていいほど内容豊かに書き上げる。

「序章 パンデミックには日付がない(地震のように一撃ではない。長期にわたって危険)」「第一章 治癒・宗教・健康」――。「神罰としての病に抗する接触する治癒神イエス」「免疫システムとしての仏教」「哲学に対して賎業の医術だった」・・・・・・。「第ニ章 哲学における病」――。「徳には適切なエトス=習慣こそがエチカ、つまり倫理と一致する」「医学は占いや魔術から発したが、ヒポクラテスらは医術を魔術から区別しようとした」「ヒポクラテスらは臨床的な立場から哲学という『気まぐれな思弁』を撃退しようとした」「16世紀のヴェサリウスの解剖学とハーヴィの生理学。17世紀のデカルトの哲学には、これらの研究が取り入れられている」「ベーコンの最上の善としての健康」「18世紀、カントは哲学と医学との分業を強調、インフルエンザは従来と異なる奇妙で不思議な流行病とした。ジェンナーの種痘をヴォルテールは評価したが、カントは自分の身体を恣意的に危険にさらすとして批判した」「哲学VS医学、唯心論VS唯物論、神学VS人間学が起きる」「ヘーゲルはコレラで死亡」――。そして細菌学のコッホ、免疫学のジェンナーにフロイトの精神分析が加わって大転換がなされていく。病因論のインパクトは大きく、フロイトも病因を特定しようと野心を持ったという。そして20世紀に入り、「哲学者は人体の究明からも感染症の課題からも遠ざかっていく」のが根本的変化と結論づける。

「第三章 疫病と世界文学」――。「デフォーのペストはロンドンの惨状を克明に描いた。疾病そのものよりも、錯乱とパニックに陥った集団の自己破壊、信用の崩壊、人間の愚かさを描く。しかもロビンソン・クルーソーと共通するロックダウンの閉鎖空間・監禁と別離のテーマ」「カミュのぺストは日付のないパンデミックの単調さと遮断と追放の感情」「罪と罰で描かれるコレラの悪夢」「コレラの恐怖を反映したドラキュラ」「ぺスト文学は共同体の閉鎖性に対し、コレラ文学はユダヤやアジアからの浸食という外部性の違いがある」「日本では結核文学が多くある。梶井基次郎と堀辰雄」・・・・・・。そして平成文学は、結核ではなく、心の病、多重人格、自閉症、LG BTAIと人間が描かれていく。

「第四章 文学は医学をいかに描いたか」――。「終章 ソラリスとしての新型コロナウィルス」――。そして「病のイメージに多くの仕事を任せてきた哲学と文学、その2つの歴史を新しいやり方で交流させ、お互いに感染させることが私の狙いとなりました。思うに、哲学や文学はそこにどれだけひどい世界が書かれていても、いつかは良いこともあるだろうという無根拠な希望を呼び覚ます力を持っています。本書がこの慎ましい希望の力の一端を読者に伝えることができれば著者としては本望です」と語る。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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