中動態の世界  國分功一郎著  医学書院.jpg「意志と責任の考古学」が副題。宇宙、神、存在と時間、言語、意志、行為、自由、選択、暴力、権力、徳と善など哲学的、根源的なことを考えさせられた。

アリストテレス、バンヴェニスト、アレント、デリダ、ハイデッカー、ドゥルーズ、スピノザ等の思考にふれつつ、失われた「態」・中動態の世界を蘇らせる。

「行為は意志を原因としない」「かつて、能動態でも受動態でもない中動態なる態が存在していて、これが能動態と対立していた」「受動態は中動態の派生形として後から発達したにすぎない」「能動態と受動態の対立は『する』と『される』の対立であり、意志の概念を強く想起させる。中動態に注目することで、この対立相対化を試みる。そこでは主語が過程の外にあるか内にあるかが問われるのであって、意志は問題とならない。能動態と中動態を対立させる言語では、意志が前景化しない」「その後の西洋世界で、意志や責任、人間主体といった概念が創造され、中動態は衰退する」「過去を断ちきるものとして"選択の開始地点の確定"が必要であり、意志の概念が呼び出され、責任が問われることになる」「能動性と中動性の関係でこそ、権力は説明できる」「強制はないが自発的でもなく、自発的ではないが同意している、そうした事態は十分に考えられる。というか、そうした事態は日常にあふれている。それが見えなくなっているのは強制か自発かという対立で、すなわち、能動か受動かという対立で物事を眺めているからである。そして、能動と中動の対立を用いれば、そうした事態は実にたやすく記述できる」「中動態はその後、抑圧され消滅していったが、回帰がある。『する』と『される』、能動と受動に支配された言語への違和感は陰に陽に、少なからぬ哲学者によって表明されてきた」「出来事は能動でも受動的でもない」「神に受動はありえない――『される』ではなく『なる』」「善は過剰である。過剰であるがゆえに、それは悪を暴力的に排除する」――。そして「われわれはおそらく、自分たち自身を思考する際の様式を根本的に改める必要があるだろう。思考様式を改めるというのは容易ではない。しかし不可能でもない。たしかにわれわれは中動態の世界を生きているのだから、少しずつその世界を知ることができる。そうして少しずつだが、自由に近づいていくことができる。これが中動態の世界を知ることで得られるわずかな希望である」という。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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