高橋是清伝.jpgこれは自伝。秘書官の上塚司が記録したもの。明治44年(1911年)に日本銀行総裁に57歳で就任、大蔵大臣に59歳。内閣総理大臣に2度、それも大正10年(1921年)の原敬暗殺のあとと、昭和7年(1932年)の5・15事件の直後。日本きっての財政金融通として、82歳で没する{昭和11年(1936年)の2・26事件}まで大蔵大臣には7度もついた。
どうしようもない経済的難局の時には、最後は「高橋是清に頼む」といわんばかりだ。

この自伝は、それ以前の話だ。血気盛ん、無頼の行動力と意志強き直言と交渉力が、明治初期から地球をまたいで発揮される。仙台藩の武家の養子として育ち、14歳で渡米。奴隷となったり、放蕩したり、ペルー銀山発掘の失敗、日露戦争での外債募集など、まさに波乱万丈。

昭和恐慌をモラトリアム(支払猶予措置)で、世界恐慌を金輸出禁止、積極財政などで日本経済を脱出させた彼の手腕には経世済民の意志と経済への動体視力があった。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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