不思議だな。そなたは目立ったことをなすわけでもないのに、関わる者は生き方を変えていくようだ。心がけの良き者は、より良き道を、悪しき者はより悪しき道をだどるように思える」「この家族には疑うという気持ちをもった者がいない。だから家中に、清々しい気が満ちている」――。
前藩主の側室と不義密通を犯したとして幽閉されて、十年後の切腹を命じられていた元郡奉行・戸田秋谷。その監視兼補佐役として来た庄三郎。庄三郎は秋谷の清廉さと気高き武士(もののふ)の心に触れて無実を信じるようになる。
蜩の鳴く声は、夏の終わりを哀しむかのようだが、不条理の中にあって従容として変わらず、区切られた1日1日を懸命に生きる尊さ。そして凄絶な覚悟。生死即涅槃――。即とは「押えて」の意味をもつが、煩悩・生死を精神の力で統御する研ぎすまされた人間精神の力をも感ずる力作。