
「逆をやれ」「変わらないために、変わる」「自分から自由になる」「加害者意識をもって生きろ。被害者意識をもって生きるな」「プロセスに、プレジャーを」「ものづくりはしょせん、人間の肉体と想像力でしかできない、生々しくもアナログな世界」「アイディアは思い出すもの」「リフティングをしてウォームアップするように、アタマもつねに回転させておく」「少しくらいクレージーじゃないと」「できない理由を考えちゃダメ」「自己模倣は、最大の敵」「漠然と生きているとフケむ」・・・・・・。
杉山さんがその時々、後輩などに語ってきた言葉が40出てくる。解説も。
人は何かに(子どもの頃からとか、常識とか)とらわれ、がんじがらめにいつのまにかなっているが、それに気付き、物事を本来のイメージに引き戻す力――それが想像力であり、無から何かを生み出すことではない。自由も孤独もみずから闘って手に入れるものだ。シバリがある、不自由だと感じたらチャンスと思うことだ。広告も含めて表現の世界は「正しくても、面白くなきゃ、意味がない。正義感に燃えてなにかを主張する人は、冗談をいわない人が多いが、マジメになりすぎちゃう。いつのまにか、発想がやせたものになりがちだ。
仕事一辺倒になると、どうしても猪突猛進しがちです。広告を出す側の目線だけになって、受け取る側の気持ちが見えなくなる。受け手の気持ちを慮ること、大人の思いやりこそ大切。他人のことを真剣に考えられない人は受け手のことがわからないわけで、いい企画ができるはずがない。
エビフライは尻尾があるから美味しい――エビフライの尻尾はふつう、食べない。しかし、尻尾のないエビフライはなんだか味気ない。料理は栄養を吸収するだけでなく、感性や情緒に働きかけて、楽しんでもらうこと。アタマのいい人は、ともするとムダを切り捨ててしまいがちになる。(エビフライの)尻尾を意識できるようになれば、もっと企画にうまみとか、コクが出る。
世の中には情報がたくさんあるが、それを自分で熟慮して編集したものが知識、そこから発酵してジャンプしたものが知恵となる。それが「教養」だ。コミュニケーションには、この教養が究極的に必要。
「毎日、コツコツと勉強しなさい」(ノーベル賞の小柴さん)というが、それは直観力を磨くため。ロジカルに追いつめ抜いたその先に、パッと思考がジャンプして「非論理的な"なにか"」「アイディア」が感じられるようになる。
政治も、人と話しをすることも、演説ということもあまりにも同じだと思う。