「日本人のかつての"いつくしみ"の血は、"憎しみ"の血へと変質したのではないか。墓につばをかけるのか。それとも花を盛るのか」という「東京漂流」(昭和58年刊)以来、藤原さんの著作に接してきた。時代風景の思想家・哲人・写真家の藤原さんは常に「人間としての存在」を問いかけてきたと思う。本書はこの3年間ほどの短い著作をまとめたものだ。本当に短いコメントのようなものもあるが、そのブレない原点的視点、感受性は日常に溺れる現代人を突き、鋭い。
「人はみな孤独の中で死ぬのだ。死に捉えられた人間はみな孤独である。・・・・・・孤独死もまたさまざまな死という孤独の中の、ひとつの形なのだと思う。そして人は死ねばやがて腐乱する。世間では腐乱する前に焼くだけの話だ」「人は肩書なしには暮らせない。・・・・・・人は死した時、生涯寄り添ったその宿業は夢泡沫のように儚く消え去る」「言説を振りかざす人間に"体験"というものがすっぽり抜け落ちている。戦争のカケラほどの体験もなく、二次情報、三次情報の積木の上に自らの論理を構築しようとしているわけだ・・・・・・(従軍慰安婦問題)」「昨今、マルかバツかという二者択一的な気分が普通の人の中にも横行し、中庸というものが失われつつある」「私たちの感覚体はメディアの過当競争、過剰表現によって昨今非常に鈍感になっており、大きな声、おおげさな身振りにしか反応しなくなっている傾向がある」――。
「たとえ明日世界が滅びようと私は今日林檎の木を植える」が本書のタイトルだ。日本はいまだ経済成長を至上目的とする高度成長期の記憶に囚われ、命に対する想像力が抜け落ち、無表情で能面のような"仕事人間"が大量に生産され、原発にも放射能にも反応がない。ヨーロッパ各国が経済と人間の融合に向かった"成熟"が日本にはない。藤原さんは「ゆっくり歩く者は遠くに行ける」という言葉を銘記し、はやる気持ちの中で自壊することもなく、自らの土壌に小さな林檎の木を植えるよう、と結ぶ。