
「いまはもう経済成長なんかにしがみついているときではない。文明の書き換え作業にしっかり取りかかるときなんじゃないでしょうか」「経済力や軍事力で競い合うような国じゃない、文化力を大切にする『別品』の国です」「3.11で成長社会から成熟社会への転換が始まると思ったが......3.11以前の日本を再生しようとしているように思う」――。マクルーハンから藻谷浩介さんの「里山資本主義」、浜矩子さんの「老楽(おいらく)国家」、広井良典さんの「人口減少社会という希望――コミュニティ経済の生成と地球倫理」などをも引きつつ語っている。
日本は米国の大量生産・大量消費・大量廃棄に裏付けされた「豊かな社会」をめざして"経済大国行きの超特急"に乗ってきた。欲望のビックバンだが、若者文化、テレビ時代とテレビ人間、適当に壊れるようにつくる品質や機能の廃品化、使い捨て計画的廃品化、浪費の誘発は、次第に歪みを生み脱線する。そうした世の中の空気や気分は三面記事と広告に表現される。「フル回転していた大量生産・大量消費の歯車がきしみ始め、需要の創出がお手上げ(手詰まり)になった。その壁を強引に突き破ろうとすれば、広告は強引になり、暴力的にならざるをえません」――。まさに広告は時代のきしみから生ずる叫びだ。
「成長から成熟へ」も「経済大国かつ生活大国」もいわれ続けてきた。3.11を経て、この国を今、未来を見つめてどうするか、マイルドな成長は勿論必要だが、どういう質を求めてグランドデザインを描くか、そして行程をどう進めるか、を問いかけている。