見事な小説。的矢六兵衛とは何者か、素性も謎のまま、名文で最後まで押し切ってしまった。シンプルな構成、時代の大激動と不安に比し、ただ一点、ただ一人、無言ゆえの重厚さと精神性が空間を制圧している。
時は幕末。場所は一点、西郷・勝によって成就した不戦開城の江戸城内。開城前夜の江戸城に官軍の先遣隊長として送り込まれた尾張家御定府組頭・加倉井隼人が見たものは、一見して平穏な城中に、全く正体不明に座り続けていた一人の侍だ。しかも、西郷・勝は、その侍をけっして腕ずく力ずくで排除してはならぬ、ここに天朝様がまもなく入るからだという。隼人を中心に添役・田島小源太、外国奉行御支配通弁・福地源一郎は難役に挑む。もはや武士道いずこへという大混乱の時に頼りになる者はいない。
この侍は何者か。御書院番八番組・的矢六兵衛だ。御書院番といえば旗本中の旗本、将軍家の馬前を固める騎馬侍だが、いまや人も武士道も散り散りとなっていた。しかもこの六兵衛は身代わりで、以前の六兵衛ではないという。しかし姿形すべて武士道すたれるなかで見事な所作で周りを圧する。誰が説得しようと黙して語らず、毅然としてただただ座り続けている。部屋の場所を次々に替え、存在感が頂点に達するなか最後は表御殿の黒書院に座り続ける一人の侍・的矢六兵衛。
何者なのか。何の為なのか。人間存在。宇宙即我にまで思考は及ぶ。