
「明治以後の日本人は、なに食わぬ顔をして儒学を捨てた」「(しかし)江戸時代に学問は儒学しかなかった。人文科学も社会科学も自然科学もない。だから我こそはと意気込む天下の俊秀、大天狗、小天狗は、草莽の臣であっても、こぞって儒学に向かった。・・・・・・知と知を競い合うことに鎬を削った」「その知の競い合いの頂点に立った男こそ"知の巨人、荻生徂徠"その人であった」――その江戸の250年、日本人は脳に磨きをかけたからこそ、明治以来の人文科学等をただちに"我が物"にできたのだという。
この荻生徂徠伝は、伝記的な面と徂徠学、思想の面が融合して描かれる。
「財政難」「富士山噴火や大火」「生類をいたわり、憐むこと」「学問重視」の綱吉の時代は延宝8年(1680年)から28年に及ぶ。綱吉に重用された柳沢美濃守吉保の庇護のもと猛勉強した荻生徂徠。新井白石、伊藤仁斎・東涯父子との対立感情、荻生徂徠の下に集う平野金華、太宰春台、服部南郭、安藤東野、三浦竹渓らの俊秀。学者間の鍔迫り合いは時代の空気を浮き彫りにする。
「先王の道は天下を安んずるの道なり」「礼楽刑政こそが"道"である」――。道は天下国家を平定するために、聖人が建立した道である。朱子学一辺倒の時代に、それを乗り越え、徂徠学の根本テーゼを打ち立て、実践的な「道」の概念を重視した。「名君・徳川吉宗に天下国家を治める道を説いた思想家"荻生徂徠"」だが、本書で描く両者のやり取りも"いかにも"面白い。