織田信長 433年目の真実.jpg天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変とは何であったか――信長とは、光秀とは・・・・・・。前著「本能寺の変 431年目の真実」に続いての書。前著は光秀を中心にして科学的、論理的、文献の証拠をあげての徹底解明だが、本書は信長の思考と戦略に迫る。副題の「信長脳を歴史捜査せよ!」だ。

「生存合理性を追求した武将が"無策・無謀"で謀反に飛躍することはあり得ない」「信長への恨みなどから1人で謀反を決意したという怨恨説・野望説は誤り」「秀吉が後に家臣に書かせた『惟任退治記』や『甫庵信長記』は創作話だ」「長曽我部征伐が不可避であることを知って、光秀は謀反を最終決断した」「密室で信長と光秀の2人で家康討ちを打合せている。備中出陣そのものが家康討ちのための偽装工作だった」「家康が謀反を起こして自分を殺そうとしたので返り討ちにしたという理由付けを信長は考え、本能寺に入り、舞台をつくった(無警戒で本能寺にいたのではない)。しかし、光秀の謀反を見抜けなかった」・・・・・・。

そして信長、秀吉の「唐入り」が問題の底流を形成した。つまり「(秀吉は)諸国の領主を籠絡し服従させた後には、彼らをシナ征服という企てに駆り立てようとした。・・・・・・唐入りに対する恐怖が国中に広まり、唐入りを止めるために謀反が起きるであろうと、人々は考えていた。・・・・・・秀頼が生まれる1年4カ月も前に秀吉は関白秀次の明への放逐を考えた」「信長は唐入りの着想をどこから得たのか。・・・・・・スペインの海外征服の知識を信長に与えたのはイエズス会である」――。近くを、そして国内を身内で固め、遠くに武将を置こうとしたのだ、という。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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