「やさしさ過剰社会」になっている。「子どもを叱れない親」「生徒をほめるだけの先生」「部下を注意できない上司」・・・・・・。「SNSに反応しないと傷つけてしまうし、仲間からはずされる」「注意することは大勇気がいるし、注意されることは大屈辱で、キレる」「他人を傷つけず自分も傷つかないようにする配慮過剰」「内面に踏み込まず、傷つけ合わない、社交的やさしさ」という深入りしない友人関係・・・・・・。
たしかに日本人は「自己中心の文化」ではなく「間柄の文化」のなかにあり、自己主張をする人物を見苦しいと感じてきた。「間柄の文化」では相手と対決するような場面を極力避けようとし、「相手を否定しないやさしさ」を保ってきた。相手に負担をかけないようにする思いやりのやさしさがあった。たとえば「察するに余りある」という言葉にある思いやり、慎み深い日本の文化があった。しかし、その伝来のやさしさが薄っぺらなものとなり、日本語の配慮、やさしさの婉曲な曖昧な表現においても、最近は「・・・とか」「・・・っぽい」「・・・かも」ともっと曖昧になっている。「やさしさ過剰社会」だ。それは「本当のやさしさ」ではなく気まずさを避けようとするだけの「上辺のやさしさ」の増殖だ。「偽物のやさしさ」に騙されてはならない。見分けられるようにしなければならない。「友だちのためになると思えば言いにくいことも言ってあげる友情」「子どもの将来のためと思えば憎まれ役を買ってでも厳しく叱る親心」「部下の成長のためと思えばリスクを負っても厳しく鍛える上司」・・・・・・。本当のやさしさをともに考えることだという。