屋上に小さな神社(縁切り神社)と庭園のあるマンションに住む人々。小学生の百音と屋上の管理をしている国見統理は二人暮らしだが、血はつながっていない。朝ご飯をいつも食べに来る井上路有は同性が愛の対象だ。急死した恋人の沢田を想い続けるアラフォーの高田桃子、「うつ」で苦しむ沢田の弟・基・・・・・・。「苦しさ」「生きづらさ」はあるが、それぞれが、ほっとしたり、癒されていく。
凪良ゆうが描く世界――。桃子のあるがままを認め、受容する寛容さに安心したり心強く思ったりする。百音の賢さ、統理の言葉少ないやさしさに抑制された温かさを感じる。ニーチェの「事実は存在しない。存在するのは解釈である」は本屋大賞の「流浪の月」にもある。世間のルール、「親が死んで赤の他人のおじさんと暮らしていることはあきらかに不幸」「同性が愛の対象というのは変」「お見合いの斡旋、再就職の斡旋の強要」「働いて頑張る男でなければ」・・・・・・。そんな「ねばならない」「あるべき」という正義の"マスト"が周りを埋め尽くすなか、「ぼくたちは違うけど認め合おう」「それでも認められないときは黙って通り過ぎよう」「できるだけ協力し合って気持ちよく暮らしてにいきたい」「どんなに素晴らしい主義主張も人の心を縛る権利はない」「自分に嘘をつかずに生きていけることも健康的でいい」と生きていく。そうしたことがこの小説で浮かび上がってくる。そして「誰かの『解釈』とは関係なく、わたしは楽しく暮らしている」「毎日統理が手を入れ、守っている美しく善い庭。わたしは、ここが、とても好き。」と結んでいる。