511jW40ZEuL__SX347_BO1,204,203,200_.jpg「戦争とは他の手段をもってする政治の継続である」――。カルル・フォン・クラウゼヴィッツ(1780年~1831年)の「戦争論」は、どのようにして書かれたのか。「戦争にいかにして勝つか」という軍事学ではなく、クラウゼヴィッツは「戦争とは何か」を命題としてその本質、政治とのかかわりを著わした。しかも、近代国民国家の黎明期、ナポレオンの猛威が全欧州を覆うなか、劣勢続きのプロイセンの陸将として現場で苦闘し続けた実存感を執筆した。フランスに屈した母国に失望し、一時ロシア軍に身を置く(あの冬将軍のボロジノの戦いの頃)が、このことが国王に睨まれることにもなった。ナポレオンが敗れ去ったあとの1818年、クラウゼヴィッツは士官学校校長に任ぜられ、「戦争について」の執筆にかかる。社交とか愛とは程遠いクラウゼヴィッツと、貴族出身で社交的、芸術・文化に造詣が深く聡明な妻・マリーや義母とのやりとりは、シニカルでもあり、コミカル。あたかも"家庭内戦争"のようで、信頼があって面白い。1831年、クラウゼヴィッツは猛威をふるったコレラで突然に死亡する。己の未完成の膨大な原稿を妻・マリーがまとめ、「戦争論」全十巻として出版する。フラウ(妻)の戦争論だ。

イエナ・アウエルシュタットの戦い(1806年)、アイラウの戦い(1807年)、ロシア・ボロジノの戦い(1812年)、ザクセン地方・グロースゲルシェンの戦い(1813年)、ザクセン地方・ライプツィヒの戦い(1813年)、ラ・ベル=アリエンスの戦い(1815年)――。"前進また前進"のナポレオン軍と結束できず右往左往する反フランス同盟各国の生々しい様相が描かれる。「時代遅れの組織、戦術、装備もあるが、プロイセン敗退の原因は、君主制を敷く古びた国家が、(フランスの)共和制という新たな制度によって生み出された未知の力に対して、なんの備えもなくぶつかっていったところにある。軍隊の過失というより政治の失態に存するのだ」「戦いとは単に戦場を征服することを目的とするものではなく、相手の意志を征服する(戦いの放棄)ことを目的とする」「戦争と対になる言葉は『平和』ではなく『対話』。戦争は武器を用いた政治の手段なんだから外交、つまり『対話』だ」「お母様、カルルの論文のなかには人間がいる。・・・・・・たとえ国王陛下に評価されずとも、百年先に残るカルルの論文なの」「兵力は分散することなく集中して運用せよ。有形無形の力を決勝点に集中すること、これこそが勝利の方程式なのだ」「シャルンホルスト(陸軍参謀本部初代参謀総長、クラウゼヴィッツの恩師)は軍の戦術改善ではなく国家改造だった。自らの国を自らで守ろうとする国民の意欲を生み、大量動員を可能とすることだ。そして士官学校を創設した」「政軍関係はいかにあるべきか。政治が知性であって軍事は手段。その逆はあり得ない」「戦争は暴力と暴力のぶつかり合う単純な闘争行為に見えて、その実、矛盾と混沌に満ちている。ある側面の理解を基礎として全体を単純化してしまった理論は、いつの日か現実に報復される」・・・・・・。

「マリーには、難解なものを難解なまま、複雑なものを複雑なまま、相反する真理を同時に含んで提示する矛盾だらけのこの本には、愛する夫の苦悩がゆらぎとなってそちこちに立ち現われているようだった。子のない夫婦に残された共同作業の結実に、夫の了解もなく、勝手に手を入れることができなかったのである」と結んでいる。あえて矛盾も含まれた原稿に手を入れず、出版したのだ。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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