民衆暴力.jpg「一揆・暴動・虐殺の日本近代」が副題。日本近代には、現代では考えられないほど激しい民衆の暴動があったが、民衆が法や規範を突き抜けて何故にそのような状態がつくり出されたのか。「権力に対抗する民衆」と「被差別者を迫害する民衆」とは別の民衆のように思われるが、なぜ2つが同居するような暴動となったのか。民衆を暴動・虐殺にまで走らせた背景には、どのような不満・恐怖のマグマがあったのか。本書は「新政反対一揆(明治初期)」「秩父事件(1884年)」「日比谷焼き打ち事件(1905年)」「関東大震災時の朝鮮人虐殺(1923年)」の4つの事件を取り上げ、「事件の時代背景」「民衆暴力と国家の暴力の関係」「権力への暴力と被差別者への暴力の関係」等を抉り出す。

よく語られる江戸時代の「百姓一揆」――。それは暴力的でも非合法でもなく、「仁政イデオロギー」と「百姓一揆の作法」に基づいていた。幕末の「世直し一揆」は、領主権力への訴えという要素は薄く、豪農商層に対する制裁行動が中心だった。そして明治初期の「新政反対一揆」――廃藩置県・徴兵令・学制・賤民廃止令・地租改正など明治新政府の一連の政策に対して起きた一揆。廃藩置県の衝撃は勿論だが、学校制度も農作業の働き手の子どもを失うことや教育費の問題もあった。裸体や半身を出して道路を歩かないようにというような生活様式の変化、"黒人"への脅威、被差別部落や「穢多」の廃止と反発・・・・・・。強烈な解放願望が生まれていたのに、新政府は生活を楽にしてくれず、むしろこれまでの生活を脅かす存在だったことに対して、人々は痙攣的な拒絶を見せたのだ。

1884年の秩父事件――。「困民党」「貧民党」と呼ばれた秩父地方の農民が決起し、高利貸への放火、郡役所、裁判所、警察署などを襲撃。暴動は隣県にまで広がった。背景には「松方デフレ」「自由民権運動の展開」があった。1905年の日比谷焼き打ち事件――。ポーツマス条約調印に際して、条約破棄を求める国民大会(政治集会)が日比谷公園で開かれ(2~3万人)、大会終了後に警官と衝突。大会参加者だけでなく、参加してない者も加わって何区にもわたって派出所・警察署・キリスト教会の破壊・放火が連鎖した。ナショナリズムの昂揚だけでなく、自らの身内が死傷したのに賠償金も取れないという厭戦気分、馬鹿らしさが広がっていたという。暴動参加者には東京に出てきた次男・三男の工場労働者(社会的な評価が低かった)が多く、その「男らしさ」「噴火熱」「警察権力への敵視」があったと指摘する。

関東大震災時の朝鮮人虐殺――。「戒厳令」の施行は、あたかも「朝鮮人が暴動を起こす」かのような流言をもたらし、軍隊・警察・民衆(自警団等)から朝鮮人殺害のためらいを払拭させたという。その酷さたるやあまりの狂気だ。「暴力という、日頃抑圧されている行動に一歩踏み出すと、・・・・・・日常には明確に意識されていない願望や行動が噴出する。それは自らの生活を脅かす権力への暴力行使となる時もあれば、被差別部落や朝鮮人への残虐行為となることもあった」とし、民衆暴力が「国家と民衆」「民衆の内部」の権力関係に渾然一体となって表われることを指摘する。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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