女たちの本能寺.jpg信長と光秀、天正10年(1582年)6月2日の本能寺の変。二人を取り巻く正室、側室、娘、妹らの一族の女性たちはどのような運命にあったか。徹底した史料分析と現地取材で、可能な限り彼女らの実像に迫る。濃姫、熙子(ひろこ)、御妻木、お鍋の方、お市の方、細川ガラシャ、春日局の7人。

濃姫(信長の正室)――。「本能寺の変で長刀をふるい、夫と共に討ち死にした」というのはおそらく誤り。斎藤道三とその妻となった小見の方(明智光継の長女)の長女が「帰蝶」と名付けられた濃姫。「従兄妹の光秀を慕う少女時代」「信長との政略結婚」「濃姫を仲介として道三と信長が強い絆で結ばれる」「子ができず、信長は吉乃に魅かれて信忠、信勝を産む」・・・・・・。濃姫の没年はあいまいで、"早死に説""天正元年死亡説"等も決定打に欠ける。しかし、光秀と信長を濃姫が結び付けたことは事実だろう。一方、光秀の正室・熙子――。土岐明智氏の子孫の娘で光秀と結ばれ、貧乏で苦労を共にし、娘にも恵まれる。良妻賢母の鏡のような女性だが、本能寺の変の直後、坂本城に火を放って落城、自刃した。

御妻木は光秀の妹(義妹?)。光秀と信長の緊張が高まっていく時期、美貌の才媛・御妻木の果たした役割は大きかったが、天正9年突如没す。光秀の落胆は大きく、10か月後に本能寺の変となる。

信長に深く愛され、菩提を弔った側室・お鍋の方――。信長が生涯で大切にした"妻"は濃姫、吉乃、お鍋の方の三人というが、お鍋の方の後半生は秀吉の掌の中にあり、翻弄された。

「天下一の美女」といわれた信長の妹・お市の方――。茶々は秀吉の妻・淀殿に、お初は名門京極家に嫁ぎ、お江は三度目の結婚で徳川秀忠に嫁ぎ家光を産む。

細川ガラシャ――。光秀の娘として"父の十字架"を背負い生きた。その信仰の深さ、聡明で了知に長け毅然と運命を受容した賢女として、宣教師フロイスは「欧州の王侯にも劣らぬ婦人」と称えた。光秀の娘・玉(ガラシャ)と細川藤孝(幽斎)の息子・忠興の結婚を取り持ったのは信長であった。しかし結婚して4年後に本能寺の変。離婚に見せかけて幽閉、その間忠興が側室をもち子どもを得たことにも激怒、孤独の奈落を彷徨ことになる。想像を絶する苦しみを救ったのがキリシタンへの帰依の道。ところが忠興はキリシタン禁止令もあり、棄教を迫り乳母、侍女の鼻や耳をそいだ。凄まじい。愛憎激しき忠興とガラシャは、その後も秀次に親しいとして秀吉の怒りを買い、切腹を覚悟、免れると徳川家康方につく。三成は大坂在住の大名夫人を人質にし、ガラシャは壮絶な死を決断する。才媛とも美人ともいわれるが、信念の人であり、烈女であり、それがあって忠興は豊前小倉30万石を家康から受け、細川家は熊本藩54万石となる。

お福(春日局)は、光秀の妹の孫、斎藤利三を父とする――。父の利三は本能寺の変のキーマンであり、光秀の甥にあたる。信長と長宗我部元親の取次役でもある。関ケ原の戦いの後、秀忠の御台所お江が産んだ長子・竹千代の乳母となる(家康が選んだ)。お江の愛は次男・国松に向き、竹千代(家光)を守ったのがお福だ。お福は家康に直訴、家光が三代将軍となる。お江とお福の"女の本能寺"はお福の完全勝利となる。お福は男色に走った家光が女性を愛せるように、身分を取り払って側室を選び5男1女をもうけさせた。「春日局は逆賊として滅びた光秀一族の名を高らしめて65歳で逝った」と結ぶ。

7人を短く描くが、中身はきわめて濃い。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任、公明党前代表。元国土交通大臣、元水循環担当大臣。

現在、衆議院議員、党全国議員団会議議長、東京第12総支部長、首都直下地震対策本部総合本部長、現代中国研究会顧問など。

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