兵諫.jpg日中戦争の発端となる盧溝橋事件(1937年7月7日)の前年である1936年、東京と西安で起こった2つのクーデター。二・二六事件と、奇妙な兵変である西安事件(12月12日)――。「その成否とは関係なく、奇しき偶然であるとはどうしても思えないのです。何やら人知の及ばざる偉大な力によって、すべてが精緻に必然に動いているような気がしてならない」と物語の中で語らせている。どこか、何か、少なくとも心象につながるものがあった。そのキーワードが「兵諫」。兵を挙げてでも主の過ちを諫めること、自らが主体に変わることではないのだ。

二・二六事件では死刑囚・村中孝次(元陸軍歩兵大尉)が蹶起の真相を面会に来た志津邦陽(陸軍歩兵大尉)に語る。「現今の日本は天皇親政に非ず。重臣、財閥、政党、それらに利用された一部の軍人等が国を捏ね上げようとしている。陛下が覚惺され、昭和維新を断行する」「俺達の使命は破壊だ。その後の建設は他の者の領分、俺達は捨石で良い」「陛下は必ずや貴様等の真意を悟られる。諸君らは叛乱に非ず、兵諫である」「永田鉄山は昨年8月、革新将校の急先鋒である相沢三郎中佐に惨殺された。・・・・・・相沢は永田閣下を斬っただけでなく、二・二六を惹き起こしてしまった」「永田が死んでも総力戦の思想は残る。・・・・・・日本は永田の遺産を継承する。重臣たちの殺戮は政党政治家を沈黙させ、ファシズムを結束し、名実ともに軍事国家となる」・・・・・・。

一方、西安近郊で国民政府の蒋介石に東北軍を率いる張学良の軍が叛旗を翻すクーデターが発生。蒋介石の命は絶望視され、「何が起きたのか」の真相を日本も日米の記者も必死に突き止めようとする。そこには蒋介石の掲げる「安内攘外策(共産軍を崩して国内統一の後に抗日政策をとる)」と、張学良は命を捨てても「内戦停止・一致抗日」の信念を貫く。蒋介石を拘束して安内穣外策の変更を求める。クーデターではなく兵諫だ。ただちに行われた軍事法廷では、張作霖、張学良の護衛官を務める陳一豆が「首謀者は自分が勝手にやったことで張学良ではない」と断固証言するのだ。蒋介石は兵諫を受容し、国共内戦を停止し、張学良は自ら罰を乞うが、信義に誓って蒋介石はその命を奪わない。二・二六の結果として陸軍が事実上の支配者となり、中国は内戦停止・一致抗日となる。日本と中国との全面戦争へと進む1936年の2つの事件を、小説ならではの筆致で鮮かに描く。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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