tenro.jpg第二次大戦末期、敵国であった中国の、その大陸の奥深くまで侵入した「密偵」の日本人がいた。西川一三。25歳の時、日本ではラマ教といわれていたチベット仏教の蒙古人巡礼僧になりすまし、日本の勢力圏だった内蒙古を出発。当時の中華民国政府が支配する寧夏省を突破し、広大な青海省に足を踏み入れ、中国大陸の奥深くまで潜入した。しかも、第二次大戦が終結した1945年以降も、蒙古

人のラマ僧になりすましたまま旅を続け、チベットからインド亜大陸にまで足を伸ばす。実に足掛け8年に及ぶ長い歳月を、蒙古人「ロブサン・サンボー」として生き続けた。その生き様が描かれる。死と隣り合わせの壮絶な日々。1950年に日本に送還されるが、その一部始終を執筆した「秘境西域八年の潜行」が発刊されるのも1967年。原稿が出版社で放置され続けるなど、大変な苦労のなかでの出版だった。

「夢のようだと西川は思った。内蒙古を出発して足掛け3年、この年まで4つの旅を重ねてきた。内蒙古のトクミン廟から寧夏省のバロン廟までの旅、バロン廟から青海省のタール寺までの旅、タール寺からツァイダム盆地のシャンへの旅、そしてそのシャンからラシャまでの旅。最も短いタール寺からシャンへの旅だけはラバに乗ったが、後は自分の足で歩き通し、ついに旅を完遂したのだ」「旅における酡夫の日々といい、シャンでの下男の日々といい、カリンポンでの物乞い達との日々といい、デプン寺における初年坊主の日々といい、新聞社での見習い職工の日々といい、この工事現場での苦力の日々といい、人から見れば、最下層の生活と思われるかもしれない。しかし、改めて思い返せば、その日々のなんと自由だったことか」「担ぎ屋をしながらヒマラヤ超えを9度も繰り返していた西川」

壮絶、しかし戦争が終わった後も何のために秘境に挑み続けたのか。晩年、娘の由起に言ったという。「もっといろいろなところに行ってみたかったなぁ」「こんな男がいたということを、覚えておいてくれよな」と。日本の敗戦を知り、深い喪失感を抱きながらも、国家という後ろ盾がなくとも、一人の人間として挑み続けた稀有な旅人「天路の旅人」である西川一三の生き様を浮かび上がらせ描く。じわっと、「ここにこうした日本人がいた」が伝わってくる。大変な労作。 

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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