noakakuku.jpg寛永8(1631)、江戸城御座の間。三代将軍家光から、「御伽衆」となっていた立花宗茂は、「神君家康がいかにして『関ヶ原』を勝ち抜いたか、考えを聞かせてほしい」と言われる。「西国無双」と讃えられた名将であり、西軍につき寝返らなかった武将としては唯一、「柳川13万石」を秀忠の時代に復領させた立花宗茂も、下命に不安を募らせる。「その真意は?」「新たな大名取り潰しの意図が潜んでいるのではないか」・・・・・・。時は、ニ代将軍・秀忠の病が篤くなっており、家光は親政に気持ちを昂ぶらせていた。関ヶ原とは何であったのか。「関ヶ原は力と力のぶつかり合いではなかった。内府家康が、艱難辛苦の連続だった人生を賭し、知恵の限りを尽くしての謀略戦だった。しかも、謀りに謀った末の最後の一手を前に、おそらく勝ち戦を確信してはいなかった」「豊臣家の名のもとに集められた軍勢が、豊臣家の城を中心に集まった軍勢と対決するのである。両陣営が美濃路で激突したのが『関ヶ原』であった」「改めて、この天下を分けた決戦の不可解さに、宗茂は思いを致す」・・・・・・。

 さらに家光は、「関ヶ原」の毛利についても聞きたいと言う。「関ヶ原」は、徳川と毛利との戦いでもあったのだ。同じく「御伽衆」となっていた毛利秀元が呼び出される。毛利秀元は、「関ヶ原」では毛利一統を率いて南宮山に布陣したものの、戦況を虚しく傍観して、「宰相の空弁当」と揶揄された本人だ。緊張と警戒心のなか、「吉川広家の内通の意味」「毛利秀元と吉川広家の確執」「秀元の動きが封じられた状況」「なぜ大垣決戦ではなく関ヶ原に移動し決戦となったか」「それを促した小早川秀秋の動き」などを話す。凄まじい謀略と各武将の決断・逡巡、間断なくうち続く戦況の変化が、驚嘆すべき重厚さと濃密度で描かれる。これまで描き続けられた「関ヶ原」が、極めてクリーンに立体的に迫ってくる。それをはやる心の家光、天下一の名将の老残の境地。見事に緊張感の中から描いている。

1章は「関ヶ原の闇」だが、第二章は「鎌倉の雪」――。千姫の名で知られる2代将軍徳川秀忠の長女、家光の姉であり影響力を持つ「天寿院」と立花宗茂の心の通い合いを描く。常軌を逸するほどの経験を積んだニ人が通わすそこはかとないロマンス。これがまた良い。

3章は、「江戸の火花」――。大御所秀忠が1632年、亡くなる。家光は昂ぶる。旗本を監察する横目に加え、大名家に目を光らせる大横目を設ける。父秀忠からは「代替わりにこそ留意せよ。世にくすぶる輩は再び世が乱れるのを待って息を潜めている。それを恐れよ、それに足元をすくわれぬよう警戒を怠るな」との遺言がある。大名たちの戦々恐々は目に見えるようだ。父母から愛されなかった家光は、父母の寵愛に甘える弟・大納言忠長を許せない。そうしたときに、肥後の加藤忠広の嫡男・光広による謀反の企て「加藤家改易騒動」が起きる。加藤清正以来、関係の深かった宗茂はどうするか・・・・・・。

「誰も、教えてくれぬではないか・・・・・・。眠れぬ夜を、幾度も幾度も重ね――余はようやく、法の徹底しかない、そう思い切ったのだ。徳治ではなく法治、慈悲ではなく処罰、それが余の治世のあり方だ! 偉大なる祖父と父から託されたもの、それを守る道はそこにしかない!」。それに対して宗茂は、「偉大な祖父と父。それに比べて我が身の将軍たる根拠とは――。家光の心中深くにあるこの不安を・・・・・・その心を安んじてあげられぬものか。抜き身のようなその心を、老いの身が鞘となって包んであげられないものか。その思いが、宗茂の胸を貫くことがあった」という。まさに立花宗茂残照。尚、赫赫たれ。

「貴殿の赫赫たる武勲、それを知るものはまず、その居ずまいに驚かされる。誇らず飾らず、あるがままをさらしている。その姿に、人は知らず知らず強く惹かれてしまっている」と語る丹羽長重に、宗茂は「宗茂などはるかに及ばぬほどの辛酸をなめてきた長重。関ヶ原の敗軍も生き延びて今がある。その先にこの柔らかな笑顔がある」「またひとり、畏友を得た思いだった」と語るのだ。いい。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

太田あきひろホームページへ

カテゴリ一覧

最新記事一覧

月別アーカイブ

上へ