kantoudaisin.jpg「首都直下地震へどう備えるか」が副題だが、関東大震災から100年、東京はどのように作られ、どのような弱点を持っているかを克明に明らかにする。東京は、大正時代以前に何回も大地震に襲われてきた。1703年の元禄地震(M7.9)1855年の安政江戸地震(M 7.0)。そしてもう一つ、江戸を焼き払った明暦3(1657)の振袖火災。壊滅状態にあった江戸は、そのたびごとに復興し、拡大してきた。関東大震災は1923(大正12)に起き、105000人を超える犠牲者を出した。その時にとられた帝都復興事業はどのようなものなのか、都心を生まれ変わらせたこの事業を徹底的に調べあげたのが本書だ。きわめて面白く有意義だ。

まず、関東大震災はM7.9と言われているが、武村さんが岐阜測候所の観測記録の実物を見つけ、M 8.1 ± 0.2であることを発見する。本震から約3分後と4分半後にかなり大きな余震があったことを強震計は捉えている。

東京市15 区全体の死者数約69000人のうち、隅田川東側の江東地域で59000人、特に本所区の陸軍被服廠跡で、38000人の死者を出した。風速10メートル近くの南風と大火災により発生する火災旋風による火災である。多くの避難者が、田端文士村(鹿島組の鹿島龍蔵の自宅があった)や滝野川町西ケ原(旧古河邸が「滝野川救療所」として活用された)などに向かったことが描かれている。また後藤新平から後を継いだばかりの東京市長・永田秀次郎は96日、被服廠跡を訪れ、死骸を1日も捨ておくことができないとその場で焼く決意をした。白骨の山の写真が載せられている。

山本権兵衛内閣の組閣があり、内務大臣に就任した後藤新平は、遷都はしない復興費は30億円欧米でも最新の都市計画を採用し、わが国ふさわしい新都を建設する新都計画実施のため地主に対しては断固たる態度で臨むーーという基本方針を作った。大蔵大臣の井上準之助は国家財政が厳しかったこともあり帝都復興事業費は7200万円となるが、後藤新平、井上準之助、高橋是清、渋沢栄一、伊東巳代治らの大論争があり紛糾する。著者は「後藤新平に光が当てられることが多いが、後藤を理解し、政治的・経済的困難の中で、帝都復興事業を実現させた影の立役者は、井上準之助ではなかったかと思われる」と言っている。

東京復興事業の内容は、総額7億円余り(4兆円)、柱となったのは、昭和通りと大正通りなどの道路(39111万円)、土地区画整理(1270万円)、橋梁(6351 万円)、学校、、学校、上下水道、公園などで、同潤会アパートもこの時建設された。寺院の郊外移転も進められた。本書では主だった道路や橋梁について詳しく述べており、今なおこれらの道路、橋梁、公園、復興小学校が東京の主軸となっていることがよくわかる。

最後に「現在なぜ首都直下地震に怯えなければならないのか」が語られる。それは、「東京東部で進行する地盤沈下とゼロメートル地帯の問題」「環状六号線と八号線の間に残る木造密集地域の問題」「超高層ビルにおける長周期地震動とエレベーターなどが止まる超高層難民問題」など、課題は山積していると指摘する。戦後の復興が経済を重視するあまり防災・街づくりをおろそかにし、昭和39年の東京五輪も今回の五輪も、高速道路やタワーマンション建設を急ぐことにより脆弱性を増していることを懸念し指摘する。そして、「関東大震災後の復興は、街の耐震・耐火性実現を前提に、公共性、国民的合意形成、首都としての品格形成の3点によって特徴づけられていた」「今こそ関東大震災の帝都復興事業に学ぶ時である」と結んでいる。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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