ogawa.jpgミステリー小説ではない。歴史学者による実証研究の書。「堀田正俊と徳川綱吉」が副題。第5代将軍綱吉の時代在職16801709。元禄14(1701)の江戸城内の「松の廊下」事件のほかにもう1件、貞享元年(1684)828日、大老・ 堀田正俊が若年寄・稲葉正休に脇腹を刺されて死亡した。赤穂浪士の話ばかりが有名だが、江戸城内で大老が刺し殺されるという大事件だ。こんな事件がなぜ起きたのか――。この殺人に綱吉の意志が働いていた。堀田正俊は、綱吉の度が過ぎるほどの犬愛護、それに落ち度があった者への厳しい処刑、恐怖政治、能役者の幕臣への登用など、諫言を繰り返したという。それを疎ましく思っていた綱吉は、ついに正俊の大老辞職を迫り、それが拒まれ殺害に至ったという説を立証している。

そこには、「綱吉の政治の是非(明君か暗君か)」「正俊が目指す仁政の実現と綱吉との食い違い」、何よりもよって立つ「儒学」に対する考え方の根本的違いが深刻な亀裂となったと分析する。近年になって、生類憐みの令が「仁政の実現」と言う評価があるが、「百件を優に超える法令によって、民衆の生活に立ち入り、厳しい処罰や取り締まりによって達成される仁政とはいったい何であろうか」と言う。正俊の著作「颺言録(ようげんろく)」には、仁政思想、明君たるべき将軍像が描かれている。綱吉を立てて書いたために、虚実が混ざっている。「民は国の本」「日本版貞観政要を意識」「仁政は父母の心で子たる民衆に望むこと」「命令や法律に頼らず、将軍自ら率先して人徳を示し、人々の心を感化して風俗を変えることこそ仁政である」「老子に『大国を治むるは小鮮を烹るが如し』とあるように、大国を預かる君主は、民衆の行いを逐一気にして介入し、その行いを正そうとするような小心翼々とした構えではいけない」などが描かれているいる。また綱吉は「儒学好き」で大名相手に講義をよくしたといわれるが、「儒学は修己治人の生きた学問、活学であって、儒学を講釈することと、儒学によって民衆を治めることはイコールではない」と解説している。綱吉の厳罰主義や、政治のやり方、講釈する儒学に、荻生徂徠、熊沢蕃山、新井白石などもそれぞれの立場で厳しい目を注いだ。正俊は諫言によって、綱吉の逸脱を正し、明君像近づけようとしたが、綱吉はそれを憎み、疎んじて大老職引退を迫り、それを拒否したことによって、事件が起こったと分析する。

正俊は、自分の死を予感していた節があり、それゆえに「颺言録」の完結を急いだようだ。綱吉を支えたのはたった4年。堀田正俊が殺され、綱吉のブレーキ役がいなくなり、生類憐れみの令、恐怖政治が進んでしまったようだ。きわめて面白い、示唆するところ大の著作。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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