hyakki.jpgなるほど「百鬼大乱」の大変な時代、大変な関東だったと思う。太田道灌(14321486)は「江戸城築城」「山吹伝説」などが名高いが、人物像そのものはあまり伝わっていないようだ。しかし本書は、「戦国時代はいったいいつから始まるのか」の問題意識から、歴史関連の文献を読み込み、「応仁の乱に先駆けること13年、関東の戦乱は、実に30年にわたり、応仁の乱が収束した後も続き、戦国時代の幕を開けた」ことを明らかにする。その血みどろの30年を駆け抜けた名将が、太田道灌であることを描く。「太田道灌こそ、まさしく名将と呼ぶに相応しき漢であった。長引く関東の戦乱をほぼ一人で平定してみせ、自ら指揮を執った戦で負けたことは一度たりともなかった」「諸葛孔明の如き人物」と言う。

足利幕府が衰え混迷する15世紀中頃。関東では鎌倉公方・足利成氏、それを支える簗田持助等と、関東管領・上杉家との激しい戦いが絶え間なく繰り返されていた。上杉家は、上杉宗家の家務・長尾景仲(昌賢)、扇谷分家当主の上杉持朝(道朝)、扇谷分家の家務の太田資清(道真)3人の猛者、そして道真の嫡男・太田資長(道灌)が強い結束のもとで戦いを進めていた。1454年、成氏による関東管領・上杉憲忠の殺害をきっかけにして、享徳の乱が勃発。上杉援軍の今川範忠は鎌倉を制圧、敵が町中に火を放って逃げ250年にわたって、坂東の都として栄えた鎌倉は、無惨にも灰燼と帰す。室町幕府は、足利政知を新たな鎌倉公方として派遣したが、伊豆の堀越を拠点とした(堀越公方)。足利成氏は鎌倉を追われ古河を拠点とする(古河公方)。ここから再びおおよそ利根川を挟んで両陣営二分の激突となる。昌賢は古河の対岸に砦を構え、資長(太田道灌)は長禄元年(1457)、江戸に城を築く。品川や神奈川の湊に出入りする商人の船が江戸に集まってくる。河越などにも砦が築かれる。一進一退の攻防が激しく繰り返されるなか道真・資長親子の活躍はめざましく、資長は獅子奮迅の戦いとなった。京では、山名と細川等による応仁の乱(14671477)が起き、関東にもその影響が及んだ。

しかし、そうしたなか、上杉家内の抗争が始まり、上杉顕定の重臣・長尾景春が謀反(長尾景春の乱)を起こし大混乱。これを太田道灌が鎮めたのだった。ほとんどの戦いで勝利し、上杉家の危機を救った太田道灌であったが、妬み、讒言にもあい、直言も用いられないことが多かった。そして文明18(1486)8月、上杉定正の刺客によって暗殺される。「当方滅亡」――太田道灌の残した言葉通りの上杉家となり、北条早雲によって付け入られる関東となってしまう。

「お家の為、一門の為、命を賭して戦に挑む。しかし何のための戦いなのか」太田道灌の胸中には、外の敵ばかりでなく、内の敵とも戦わねばならない悔しさがあったと思う。まさに「百鬼大乱」の関東、そのなかでの太田道灌。せり上がってくるような苦衷がよく描かれている。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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