sakkanooikata.jpg33人の著名な作家が、「老い」について語る。それぞれ率直で、味わい深く、面白い。

「満足なんてできない。ただ、諦めることはできる。・・・・・・弱いこと、振り回されていることをちゃんと自覚できる人とまるでできない人の差は大きいと思う。聞くべき声は何時だって自分の内にある。そんな自前のモノサシをちゃんと持っている人をホンマモンの大人というのだ(あさのあつこ)」「自分の年齢をじつに生々しく思い出すときがある。イケメンと言われる俳優やタレントを見た時だ。わからないのである、その良さが(角田光代)」「年よりも若々しく見える素直な友人たちを見廻して気がつくことは、みな、悲観論者ではない、ということです。みんな何とか生きてゆけるのです(向田邦子)」「せっかく逝くのだから少し珍しい最期を(河野多恵子)」「老いの寒さは唇に乗するな(衰えの徴候をつい口にするものだが) (山田太一)」「人は知らずに、年寄りのようになる。――けふばかり人も年よれ初時雨(芭蕉)。若い人の内にも老いの境地はある。鉄道の引き込み線みたいなもので、無用のようで、なければ窮する(古井由吉)」・・・・・・。なるほど、あるある、感嘆する。

「初めは羨ましいとも思ったが、すぐにその老人の健康な生活も、日々これ退屈との格闘なのだと気づいた(島田雅彦)」「いくつになっても色気を(筒井康隆) 」「生きるということの真義は、人が軽んずる日常の充実ということにあると私は信じている(金子光晴)」「老いて何よりも悲しいことは、かつて青年時代に得られなかった、十分の自由と物質とを所有しながら、肉体の衰弱から情慾の強烈な快楽に飽満できないといふ寂しさである(萩原朔太郎)」と言う。あの萩原朔太郎がこういうことを言うのかと思う。「読み、書き、散歩」の毎日だと言う富士川英郎は、老年の心境を晩唐の詩人李商隠の「夕陽、無限に好し。只だ是れ、黄昏に近し」と夕陽無限好を語る。素晴らしい境地だ。吉田健一は「若いうちのちぐはぐ、ぎこちなさ」に比して「成熟した人間を老人と呼ぶ。成熟の持続が重要」と言う。

遠藤周作は、「彼の顔が白布で覆われているのを眼にした時、想像もしなかったその死に顔に衝撃を受けた。『自分もいつ、こうなるか』という思いが胸に込み上げた。死してそれを何で受け入れるか。例えば、愛読してきた小林秀雄氏の最後の言葉が何であったのか、最後の心情がどうだったのかを知りたい」と書く。最後の思想、最後の言葉、最後の心情は記されていないものだ。そこを知りたいのだ。「サルトルらの実存主義の『人間は不条理の世界に投げ込まれた存在である』を最近しきりと思い出される。不条理の中で生きるとはどういうことか、年とともにますますわからなくなった。ただ『生きていればこそ、幸せにもなれたろうに』と言うトルストイの言葉に間違いはなかろう(吉田秀和)」「存命のよろこび。・・・・・・生まれた地に帰りたいのだ。とにかく生き抜く。そして、最後の最後まで歌を作ろうと思う(河野裕子)」・・・・・・。80歳を超えて、なお維持する強靭な精神――中村稔は多くの詩人の「老いの詩」を批評する。「私が親しんできた西脇順三郎の世界の変奏にちがいないとはいえ、何という瑞々しさ、豊かなイメージの拡がり、自在な展開だろう。・・・・・・老いた日の刻々の光への哀惜があり、生への愛懍がある。健康が許すとしても、80歳を超えて、私にこんな強靭な精神が維持できるだろうか」と言い、「わが身が周囲に対する甘えを覚えるとき、老いたというべきだと私には思われる」と言う。

最後に精神科医の中井久夫が「老年期認知症への対応と生活支援」を述べ、「初期の認知症は緩やかに始まる」「初期とは、私は、自我同一性の喪失までとしたい。というのは、この初期の対応が改善されれば、初期が長引き、ひいては初期にとどまる可能性があるからである」と処方箋を述べている。分析は極めて説得力を持っている。

含蓄のある味わいある率直な「老い」についての発言を実感する年に十分なった。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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