「どら焼きのどら春」――この店は、線路沿いの道から1本路地を抜けた桜通りという名の商店街にあった。店を任せられている千太郎はバイトの求人を見てやってきた指の曲がった高齢の女性(76歳)・吉井徳江を雇う。そのつくる「あん」がとても旨く、店は繁盛しはじめる。しかし徳江の指に込められた閉じ込められた人生が少しずつ少しずつ語られていって・・・・・・。
「誰にも生まれてきた意味がある」「生きる意味がある」「私たちはこの世を観るために、聞くために生まれてきた。この世はただそれだけを望んでいた」「私がいなければ(観る人がいなければ)、この満月はなかった」「世のため人のために働いてみたかった」――。自ら背負った人生の苦しみから得た人生の深淵が語られる。「喜びは苦しみと背中合わせだった」ということも。そして「現実だけ見ていると死にたくなる。囲いを越えた心で、生きるしかない」ことも。
ラストは桜をモチーフにして、静けさと沈黙の時間が流れ、心に迫ってくる。しかもそうではないかと思いつつ読み進んだが、徳江が「もう一度あの桜が見たい」と言っていた故郷の桜は、私が生まれ育った愛知県新城市の桜淵公園の桜。私も時折り、その思いにかられる。なお、徳江はハンセン病だったが、このほど最高裁は、裁判を裁判所外の隔離施設などで行った特別法廷について、運用は違法で、患者への差別を助長するものとして謝罪した。
国土学を「国民国家の現象学」として提起している。「国土学」とは、「国家の存続と繁栄のために国土のあり方を考える学問」であり、「自然の脅威」「外敵の脅威」「自滅の脅威」を克服し、繁栄と存続に資する"あるべき国土"を考えるために、国民国家の「現象」すべてを包括的に捉え、解釈する「国民国家の現象学」だ。仏法でいう「依正不二」「三世間」論を根底にすることだと私は思う。Ⅰ部とⅢ部で藤井聡さんが、その哲学を語っている。
大石久和さんが第Ⅱ部で論じた「日本の国土学」は、具体的で卓越している。他国とは比較にならない脆弱国土・日本。それに日本人はどう働きかけてきたか。そのなかで、日本の社会と日本人の意識構造はどうつくられてきたのか。近年、安全・安心の国家、防災・減災と経済成長のエンジンであるインフラ整備の観点がなぜ脱落し、論点から切り離されてきたのか。財政、経済との関連で、インフラ整備のフロー効果ばかり論じられ、なぜ本来のストック効果を見ないできたのか。先進各国はどうインフラ整備に取り組んできたのか。インフラ整備の日本の現状はどうであり、何が今必要なのか・・・・・・。
社会を下から支える基礎構造であるインフラ概念を理解していない日本の現状に、哲学的かつ具体的に迫る。災害が頻発する脆弱国土日本なのに、インフラ整備が見落とされてきた不思議な日本。防災と経済成長・競争力強化のためのインフラ整備が今ほど大切な時はない。
サンジーヴ・スィンハ氏は、インド工科大学を出て、若くして来日し、金融や技術を通じて、両国を結びつける天才的コンサルタント。冷静でありつつも情熱的。今後、急速に発展し、世界経済・政治の重要なプレーヤーとなるインドだが、その強い結び付きはまだ始まったところだ。私自身もインドに行き、鉄道をはじめとして結び付き強化に努めてきた。
日本の魅力――人間性・文化・技術のすぐれた日本を著者は紹介するとともに、「クールな日本+ホットなインド」「日本のシステム+インドの柔軟性」は最高のコンビだと、実感をもって語っている。CoCo壱番屋や公文教育委員会のインド進出がいかなる意味をもっているかなど、具体事例も面白い。
東京・八王子の新興住宅地で夫婦が惨殺され、「怒」という文字が被害者の血で書かれた。犯人は27歳の青年・山神一也と判明するが、行方がわからず、捜査は難航する。
そして一年、千葉の港町で働く親子(槙洋平・愛子)、東京で勤務するゲイの若者の優馬、沖縄の波留間島に暮らす母親と女子高校生(小宮山泉)の所に、それぞれ素性の知れない若者(田代、直人、田中)が現われ、心通い合う関係になる。いずれも偽名であったり、身元を隠し、ひっそりと住み、過去を語らない。山神が公開捜査されるなか、相手に対し、疑念が生じていく。
「人を信じる」とはどういうことか。「信じていいのか、信じられるのか」――。消せない過去を心の内に秘めつつ、あがいて生きる人生模様が描かれる。
3つの物語が完成されていき、それぞれがクライマックスに達していく。1つの小説というより3つの小説が緊迫感をもって、怒涛の結末に至る。