実力も運のうち.jpg「能力主義は正義か?」が副題。性別や人種、貧富などの違いによらず、能力の高い者が成功のチャンスを生かせる「能力主義(メリトクラシー)」は、一見したところ公平で平等で正しいように思える。しかし今、こうした「能力主義」がエリートを傲慢にし、学歴や社会的地位を得た者が、成功できなかったものを「敗者」「機会が与えられているのに努力しなかった者」として見下し、成功できなかった者自身にも屈辱が残り、尊厳が奪われる。そこに社会の反発と分断が生じ、ポピュリズムの温床が出来上がる。ブレグジット、トランプ現象もオバマやヒラリー・クリントンのエリート意識も、"能力主義"の乱反射だと考えられる。この現代社会に根付く新たな"階級社会"を、真に正義にかなう共同体へと変えることはできるのか、と問いかける。

サンデル教授は、この能力主義(メリトクラシー)が、いかにして支配的になり、いかなる弊害をもたらしているかを、米国の具体例を示しつつ縦横に論じている。そこには、米国における宗教(神)や、アメリカンドリーム、激しい移民と格差という背景が日本とは比較にならないほど大きく存在することを感ずる。

「人はその才能に市場が与えるどんな富にも値するという能力主義的な信念は、連帯をほとんど不可能なプロジェクトにしてしまう。・・・・・・われわれはどんなに頑張ったにしても、自分だけの力で身を立て、生きているのではないこと、才能を認めてくれる社会に生まれたのは幸福のおかげで、自分の手柄ではないことを認めなければならない。自分の運命が偶然の産物であることを身にしみて感じればある種の謙虚さが生まれる。神の恩寵、出自の偶然、運命の神秘――こうした謙虚さが、われわれを分断する冷酷な成功の倫理から引き返すきっかけとなる」「"結果の平等""機会の平等"ではなく"条件の平等"――富や栄誉に無縁な人でも、まともで尊厳な暮らしができるようにする。社会的に評価される仕事の能力を身につけて発揮し、広く行き渡った学びの文化を共有し、仲間と学びの文化を共有する。出世しようがしまいが、尊厳と文化のある生活を送ることができなければならない。生来の能力を発揮し、あるがままに他者から認められることは可能だ」「消費者的共通善ではなく市民的共通善、機会の平等ではなく条件の平等が、"能力(メリット)"の専制を超えてゆくためには必要だ」という。「GDPの規模と配分のみを関心事とする政治経済理論は、労働の尊厳をむしばみ、市民生活を貧しくする。ロバート・ケネディは、仲間意識、コミュニティ、愛国心や労働の尊厳をうたい、働く人が『自分はこの国をつくるのに手を貸した、この国の公共の冒険的大事業に参加した』と言えるような労働の尊厳を強調した。そうした政治家は今ではほとんどいない。進歩派の大半は、"出世のレトリック""大学へ行け"、グローバル経済で競い勝つ術を身につけよ。やればできる、というだけだ」・・・・・・。

"能力主義"がはびこる現代を「真に正義にかなう共同体」へと変えようと現代社会の問題点を剔抉する。


黒牢城  米澤穂信.jpg「進めば極楽、退かば地獄」――。天正6年11月、信長を裏切った荒木摂津守村重は、ルイス・フロイスが「甚だ壮大にして見事」と評した大城塞、有岡城に立てこもった。一向門徒の本願寺と陰陽十州を欲する毛利と手を結んだ反信長の挙兵である。

「この戦、勝てませぬぞ」「毛利は来ませぬぞ」と村重の下に説得しに来た小寺官兵衛(黒田官兵衛)は言うが、囚われ土牢に入れられる。そして織田の大軍は、雲霞のごとく有岡城に迫ってくる。やがて高槻城の高山右近、茨木城の中川瀬兵衛が降伏し、大和田城の安部二右衛門まで寝返って降伏する。毛利は来ないばかりか、宇喜多直家も織田方に付き、毛利との途は遮断される。

四面楚歌の有岡城――。軍議も進まず、徒労感が漂い、やがて城内は疑心暗鬼に覆われていく。その描写はまことに見事だ。事件が起き、動揺が走る。内部の問題だ。「安部二右衛門の一子で人質として城中にあった自念の奇怪な死。村重は殺さぬようにしていたのに、なぜ胸に深い矢傷を負い死んだのか」「夜討ちをかけ討ち取った敵将・大津伝十郎の首が大凶相の首と変じた事件。伝十郎を討った手柄は誰のものか」「秘中の秘、村重が私議を進める使僧として用いた無辺が殺害され、持たせた名物〈寅申〉も消えた事件。その無辺を斬った瓦林能登が雷に打たれて死ぬ」「いや雷鳴の前に誰が能登を撃ったのか」・・・・・・。それらの事件が解明される過程で村重は追い詰められていく。四囲を敵に囲まれ、内部からの信頼が失われ有岡城から追い落とされる恐怖にさらされていく。

「采配に迷いが生じている、と村重は気づいた。・・・・・・迷うな、死ぬぞと、村重は自らに言い聞かせた」・・・・・・。そして城内に不安と不満が充満していくなか、村重は土牢の官兵衛の下に行くのだ。「おそれながらそれがしの見るところ、天下の軍を摂津守様と存分に語り得る者は・・・・・・まあ、まずは絶無。この有岡城で摂州様の言をまことに解する者は、誰一人ござらぬ。それがしのほかには誰一人」と官兵衛はいうのだ。更に摂津生まれでない村重の心中の揺れと重臣との心のズレが抉り出されていく。そして「仏の罰」「無間地獄」「御仏は見ている」「死にゆく民を安んじる」「勝つ見込みのない戦さのなか、崩れゆく荒木家の紐帯」の世界へと進む。

「村重はなぜ官兵衛を殺さなかったか」「村重はなぜ信長を裏切ったのか」「村重はなぜ単身で有岡城から逃げ出してしまったのか」「信長はなぜ荒木一族を発見しだい皆殺しにしたのか」「官兵衛は村重に何を吹き込んだのか」――。米澤穂信が描くユニークな「四面楚歌の荒木村重"有岡城"」だ。

終章では官兵衛が牢にある時に死んだ竹中半兵衛が、殺されたと思っていた松壽丸(黒田長政)を救ったことが出てくる。「義兄(半兵衛)は、やはり黒田の人質を斬れば一つには中国経略の誤りとなり、一つには天道に恥じ、一つには官兵衛殿に申し開きもできぬと言って上様をたばかり・・・・・・」という。結びとして、「黒田官兵衛は、自らの心得をこう遺している。神の罰より主君の罰おそるべし。主君の罰より臣下百姓の罰おそるべし。・・・・・・臣下百姓にうとまれては必ず国家を失ふ故、祈も詫言しても其罰はまぬかれがたし」との官兵衛の遺訓を語る。


三国志入門.jpg「三国志の世界を知ることは、宝の山に踏み込むようなものかもしれません」――。その通りだと思うが、あまりに膨大な三国志の世界は、森の中に入り込んで全体を見失いがちなのも事実だ。羅貫中の小説「三国志演義」、陳寿の歴史書「三国志」を踏まえ、中国歴史小説の第一人者の宮城谷さんがバシッと全体像を示してくれる。天が晴れるような「三国志」入門の書だ。

まず「三国志演義の世界」では、桃園の誓い、伏竜と鳳雛、秋風五丈原など、きわめて短く全体像をまとめてくれる。羅貫中は黄巾の乱(184年)から呉が滅亡して晋の武帝の太康元年(280年)までを描く。劉備を軸とした小説だ。中国の「三国時代」は曹操の子・曹丕が帝位についた年(220年)から司馬炎が帝位に即いた晋王朝が始まる265年までの間で"狭義の三国時代"となる。関羽や曹操は220年に死に、劉備は223年に死去する。「三国志の時代」は党人禁錮、宦官と外戚の威権除去、黄巾の乱で幕をあけ、群雄割拠の激動の世となる。

本書は時代の全体像とともに、「英雄たちの真実」「手に汗握る名勝負」「三国志のことば」の急所を描く。「英雄」として上げるのは、曹操、袁紹、劉備、孫権、諸葛亮、董卓、呂布、関羽、張飛、劉表、周瑜、荀彧。「名勝負」とは、「官渡の戦い 袁紹×曹操」(200年)、「赤壁の戦い 曹操×周瑜(孫権)」(208年)、「夷陵の戦い 劉備×陸遜(孫権)」(222年)、「五丈原の戦い 諸葛亮×司馬懿(曹叡)」(234年)だ。「三国志のことば」は「脾肉の嘆」「三顧の礼」「七縦七擒」「出師表」「泣いて馬謖を斬る」「死せる諸葛・・・・・・」「鶏肋」などだ。

久し振りに「三国志」の世界にふれることができ、頭が整理された。


ドキュメント  湊かなえ著.jpg「ブロードキャスト」に続く高校部活シリーズ第2弾。中学時代に陸上部に所属していた町田圭祐。駅伝で全国大会をめざしていたが県大会で僅差で敗れた。エースの山岸良太が出れなかったのだ。二人は陸上の強豪校である青海学院高校に進むが、圭祐は入学直前に交通事故に遭い、同じ中学出身の宮本正也に誘われ放送部に入部する。3年生が引退後、圭祐は2年生4人(白井律部長、蒼、黒田、翠)と同期の正也、久米さんと共に、全国大会めざし、テレビドキュメント部門の題材として「陸上部の活動」をやろうとして、ドローンまで使って撮影に入る。ところがこのドローン動画の中に、火のついた煙草を持って部室から出てくる親友・良太の姿が映り、驚愕する。「そんな良太ではない」「誰かが、良太を、陸上部を貶めようとしたのか」――放送部のそれぞれの人間関係の裏の姿が明らかになっていく。

コロナ禍で十分な部活ができない。新入生が入ってこない。オンラインだけでは本当の人間の接触ができない。練習も指導も友情も中途半端になることを読後に現在の日本を思いハッとする。高校時代は青春まっただなか。社会や友人との出会いのインパクトの強さ。本書の事件も「悪」というより純粋な「ひたむきさ」を感じさせる。

放送部が撮ろうとした映像。撮られたくない者もいる。映像が一人歩きしたり、悪用されるこのSNS社会のデリケートさと各個人の思惑。「伝える」ということがいかに難しいか。こちらの善意の思い込みが、他の人には善意や正義の押し付けになったりもする。青春時代はそんな未熟さが魅力でもあるし、思わぬ刃ともなる。「どうして俺はレンズのこちら側にいるのだろう」と圭祐はつぶやくが、その通り、人生には悔恨もあれば希望を見出そうとする意志もある。


民衆暴力.jpg「一揆・暴動・虐殺の日本近代」が副題。日本近代には、現代では考えられないほど激しい民衆の暴動があったが、民衆が法や規範を突き抜けて何故にそのような状態がつくり出されたのか。「権力に対抗する民衆」と「被差別者を迫害する民衆」とは別の民衆のように思われるが、なぜ2つが同居するような暴動となったのか。民衆を暴動・虐殺にまで走らせた背景には、どのような不満・恐怖のマグマがあったのか。本書は「新政反対一揆(明治初期)」「秩父事件(1884年)」「日比谷焼き打ち事件(1905年)」「関東大震災時の朝鮮人虐殺(1923年)」の4つの事件を取り上げ、「事件の時代背景」「民衆暴力と国家の暴力の関係」「権力への暴力と被差別者への暴力の関係」等を抉り出す。

よく語られる江戸時代の「百姓一揆」――。それは暴力的でも非合法でもなく、「仁政イデオロギー」と「百姓一揆の作法」に基づいていた。幕末の「世直し一揆」は、領主権力への訴えという要素は薄く、豪農商層に対する制裁行動が中心だった。そして明治初期の「新政反対一揆」――廃藩置県・徴兵令・学制・賤民廃止令・地租改正など明治新政府の一連の政策に対して起きた一揆。廃藩置県の衝撃は勿論だが、学校制度も農作業の働き手の子どもを失うことや教育費の問題もあった。裸体や半身を出して道路を歩かないようにというような生活様式の変化、"黒人"への脅威、被差別部落や「穢多」の廃止と反発・・・・・・。強烈な解放願望が生まれていたのに、新政府は生活を楽にしてくれず、むしろこれまでの生活を脅かす存在だったことに対して、人々は痙攣的な拒絶を見せたのだ。

1884年の秩父事件――。「困民党」「貧民党」と呼ばれた秩父地方の農民が決起し、高利貸への放火、郡役所、裁判所、警察署などを襲撃。暴動は隣県にまで広がった。背景には「松方デフレ」「自由民権運動の展開」があった。1905年の日比谷焼き打ち事件――。ポーツマス条約調印に際して、条約破棄を求める国民大会(政治集会)が日比谷公園で開かれ(2~3万人)、大会終了後に警官と衝突。大会参加者だけでなく、参加してない者も加わって何区にもわたって派出所・警察署・キリスト教会の破壊・放火が連鎖した。ナショナリズムの昂揚だけでなく、自らの身内が死傷したのに賠償金も取れないという厭戦気分、馬鹿らしさが広がっていたという。暴動参加者には東京に出てきた次男・三男の工場労働者(社会的な評価が低かった)が多く、その「男らしさ」「噴火熱」「警察権力への敵視」があったと指摘する。

関東大震災時の朝鮮人虐殺――。「戒厳令」の施行は、あたかも「朝鮮人が暴動を起こす」かのような流言をもたらし、軍隊・警察・民衆(自警団等)から朝鮮人殺害のためらいを払拭させたという。その酷さたるやあまりの狂気だ。「暴力という、日頃抑圧されている行動に一歩踏み出すと、・・・・・・日常には明確に意識されていない願望や行動が噴出する。それは自らの生活を脅かす権力への暴力行使となる時もあれば、被差別部落や朝鮮人への残虐行為となることもあった」とし、民衆暴力が「国家と民衆」「民衆の内部」の権力関係に渾然一体となって表われることを指摘する。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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