「自立した女性」「波瀾万丈の人生」「戦前、戦後――激動の20世紀を全身で受け、全力で生き抜いた凄い女性」「我が息子に限りない愛情を注いだ母」――。軍事アナリスト小川和久さんの母・小川フサノさんの一生を描いた伝記。その凄まじさに驚く。激動の20世紀日本が、そのまま人生に投影されている。小川和久さんと私は、同じ昭和20年生まれ。平和や昭和が私たちの同級生の名前には付けられている。何か祈りのようなものが、我々の誕生には込められているような気がする。しかし、それにしても小川和久さんのお母さんはケタ外れに凄まじい。想像を絶する苦難に、毅然と突き進むまっすぐの生命の姿勢に感動する。
1903 (明治36)年生まれ。13歳にしてブラジルに移民として渡る。「移民小屋は家畜と同居」「移民は棄民」。頑張り抜いて「タイピスト修行」「ダンサーとして、『私はブラジル育ちのアマゾンおケイ』」・・・・・・。そして21歳、祖国日本に帰る。「横浜山下町でカフェ『タンジー』繁盛」。しかしさらに東洋一の大都会・上海に向かう。26歳。その上海で「母の人生を決定づけた3人の外国人と出会う。在日華僑で南京政府の要職に就いていく陳伯藩、結婚間際までいきながら結ばれなかったアメリカのキャリア外交官ロバート・ジョイス、ひょんなことで日本語を教えることになったオーストリアの名誉総領事エルンスト・ストーリである」。そこでの人脈はすごい。働き、運もあって相当の資金を得る。
そして再び日本へ、31歳。日本は昭和恐慌、2.26事件、軍靴の音がひびく。「渋谷鉢山町44番地」「アパート経営」「女の実業家として目を引く」・・・・・・。しかし、「憲兵政治の魔の手」「東京大空襲」「熊本への疎開」、そして終戦。日本人は「戦争で何もかも失った」が、我が家のように田舎暮らしではなく、東京・横浜・鎌倉を本拠地とした小川さんの母子の大変さはいかばかりであったか。激動の20世紀――歴史に今なお顔を出す著名人、そして事件と交差する小川フサノさんの凛とした生き様は感動的だ。