makiguti.jpg「"革命の書"『創価教育学体系』発刊と不服従の戦い」が副題。教育者であり、「人生地理学」「郷土科研究」「創価教育学体系」等の優れた著作を著し、「創価教育学会(創価学会の前身)」を創立した牧口常三郎先生(187166日~19441118)の幼少期から青壮年期を描いた第1巻に続く第2巻。1913年、東京市東盛尋常小学校の校長に就任してから、1937(昭和12)に「幻の創価教育学会発会式」に至る壮絶な戦いを、入念な調査・研究によって描く。

校長になってからも、左遷に次ぐ左遷。卓越した教育者として評価を上げていくが、妬みと策謀が押し寄せる。新渡戸稲造や柳田国男ら郷土会の研究会を続行する一方、「教育は子供の幸福のためにある」との教育改革の理念と実践は凄まじいものがあった。貧しい小学校児童に、「給食」を始めたり、災害ともなれば北海道にまでも救援活動に赴いた。時代は、牧口が嫌った牢固とした権力と権威の時代、しかも民は貧しかった。さらに経済不安は全世界を覆い、日本は軍国主義への道を突き進む。教育改革を志向する牧口の信念が、社会のベクトルとぶつかる事は不可避であった。それを全身で支えたのが戸田城外(創価学会第二代会長戸田城聖)だった。

1930年、「この年は2人だけで創価教育学会を創立した歴史的な年である」「その前後の戸田の生き様はまさに疾風怒濤のような超多忙、超人的な生活だったと思われる。とても大学に通学はできなかったはずである」と言う。この年11月、牧口の畢生の大著「創価教育学体系」の完成のため壮絶な日々を過ごす。それを応援する「創価教育学支援会」も立ち上げる。犬養毅、新渡戸稲造、柳田国男等そうそうたるメンバーだ。「『創価教育学体系』は教育学の書というより、むしろ"革命の書"であったと言っても過言ではない」「当時の教育界は、入試地獄、人事の権力による不透明、視学によって統制される教育現場、権威・権力に無力な教員たちの萎縮。その現実の教育への危機感から発して、それを根本的に革命することを宣言した書」「創価教育学とは人生の目的たる価値を創造し得る人材を養成する方法の知識体系を意味する」と述べ、1930(昭和5)1118日に、「創価教育学会」の名前が史上初めて記されたことを示す。

そして昭和の動乱。「創価教育学支援会」の有力なメンバー、犬養毅が5.15事件で倒れ、新渡戸稲造が急病で亡くなる。

1937年(昭和12)、牧口は「創価教育法の科学的超宗教的実験証明」(発行兼印刷者・戸田城外)なる小冊子を刊行する。「不屈の教育革命からさらに大きく進んで根源的な革命、すなわち超宗教革命を遂行することを宣言した」「創立から7年、宗教革命への路線転換」だと言う。「なによりもまず、すべからく教育者はまず超宗教革命を断行し、人生最大の目的観と、その達成の方法を学び、最上幸福の生活に導く教育原理を改めて確立すべき」と言うのである。日蓮仏法の実践の重要性だ。この「超宗教革命なくして家庭も社会も国家も救うことができない」の宣言から、牧口の国家権力に対する死闘、民衆救済の激闘が更に続いていく。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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