riberarizumu.jpgリベラル・デモクラシーを統治体制の最終形態だとした「歴史の終わり」から30年――。今、デモクラシーもリベラリズムも攻撃にさらされている。特にリベラリズムは、右派のポピュリストからだけでなく、新たに出てきた進歩的な左派からも挑戦を受けている。トランプ等の政治指導者は、リベラルな制度を攻撃。「司法省、情報機関、裁判所、主流メディアなどの組織を弱体化させる試みを行っている」のだ。「格差と移民」が欧米諸国の不満の背景にある事は明らかであり、リベラリズムとそれに結びつく資本主義システムへの批判となっている。「左派からの批判は、リベラルな社会が、すべての集団を平等に扱うという自らの理想に応えていないとする。この批判はやがて、リベラリズムの根本的な原理そのものを攻撃するような広がりを見せた。根本的な原理とは、集団ではなく個人に対し権利を認めることである。また人間は全て平等であるという前提である。これらは憲法や自由主義的権利の拠って立つ根拠となっている。さらには、真実を理解するための方法として重視されてきた言論の自由や科学的合理主義である。こうした原理を攻撃した結果、新しい進歩主義の正統から外れた意見には不寛容となり、その正統を実現するために様々な形態の社会的・政治的権力が用いられるようになった」と指摘する。このように右派からも左派からも、現在のリベラリズムへの不満が充満しているが、「原理に根本的な弱点があるからではなく、この数十年の間のリベラリズムの発展の仕方に不満を抱いているのだと私は考える」と言っている。プーチンが「リベラリズムは時代遅れ」と言い、欧米の方が多様性やマイノリティー問題など問題を抱え混乱してるではないか、とまでいう状況からいって、リベラリズムのもつ豊穣な価値を再構築、復権させることは、極めて重要であると思う。

リベラリズムは「実践的な合理性。暴力を規制し、多様な人々が互いに平和で暮らせるようにするための手段であり、とりわけ科学的方法と強く結びついている」「道義性。人間の尊厳、特に人間の自律性(各個人が選択する権利)を守るものである」「経済。財産権と取引の自由を守ることで、経済成長とそれに伴うあらゆる良いことを促進する。新自由主義経済学の欠陥は、財産権や消費者利益を崇拝し、国家の活動や社会的連帯をあらゆる面で軽視したことであった」と指摘する。リベラリズムは、個人主義的であり、平等主義的であり、普遍主義的であって、人類という「種」の良心は皆同じであると主張し、特定の歴史的組織や文化形式には二次的重要性しか認めない。そして改革主義的である。人間の尊厳、平等、寛容、多様性がリベラリズムの中核である。特に、「寛容」の喪失が、現代社会の紛争と混乱をもたらしていることを危惧し、「中庸」の重要性を指摘している。同感である。「寛容」も「多様性」も、各人・各団体の都合の良いように偏って主張すれば社会は歪む。それを止揚するには、「中庸」の哲学が大事だと思う。

リベラリズムに代替案などない。

本書の最終章で「自由主義社会の原則」として、「リベラリズムの原則」が掲げられている。「まず、古典的リベラル派は政府の必要性を認め、経済成長と個人の自由にとって不可避の敵として国家を悪者にしてきたネオリベラリズム(新自由主義)の時代を乗り越える必要がある」「連邦主義を真剣に考え、権力を最も低い適切なレベルの統治機構へ移譲することである」「言論の限界を適切に理解した上で、言論の自由を守る必要があることである。リベラルな社会は、個人を取り囲むプライバシーの領域を尊重する必要がある」「人間の自律性は無制限ではないという認識と関係がある。リベラルな社会は、人間の尊厳、つまり個人は選択ができるのだということに根ざした尊厳が平等であることを前提としている。社会がまとまろうとするのであれば、公共心、寛容さ、開かれた心、公共問題への積極的な関与を優先させる必要がある」などと言う。

リベラリズムへの不満、リベラリズムの危機にある今、それらを再び甦らせる復権の作業、努力が人類には重要だと思う。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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