zainiti.jpg「移民国家日本練習記」が副題。戦後から今日までの在日の歩みを振り返り、その上で、日本人、在日、さまざまなマイノリティーがともに希望の歴史を編む努力が必要だと論じている。生々しく激しい壮絶な歴史を、自分の歴史と記憶に絡ませ、改めて感じ入った。

458月の敗戦当初、日本には200万人以上の朝鮮人がいたとされ、翌3月末までに130万人以上が朝鮮に帰国。その後、日本に残り続けた在日の数は5060万人台で推移した。91年から彼らは『特別永住者』として、日本に住むようになったが、その数が減り続け、2021年にはおよそ30万人となった」「平和憲法は民主主義や基本的人権を高らかにうたったが、日本人からすれば、在日は内なる他者であり、日本国籍を剥ぎ取るべき『招かれざる客』であった」「日本国籍を失った在日は、郵便局員や国鉄職員などを含む公務員になれないし、公営住宅にも入居できない。生活保護を除いて、社会保障全般のかやの外に置かれ続けた」「戦後の日本人も食うに困ったが、日本国籍を奪われた在日の苦境はさらにひどかった。荒い手を使ったり、裏社会に飛び込むものだっていた」のである。

在日映画のパイオニアのひとつ「あれが港の灯だ」(61)、「キューポラのある街」(62)。そして江戸川区の小松川高校定時制2年の女子生徒が殺害された小松川事件(58)。在日の民族意識を鼓舞した韓国民団と朝鮮総連。それに背中を押され、58年から始まった北朝鮮への移住(6061年がピークで両年で、7万人以上)。いかに日本での生活が過酷であったか、生活保護だけが命綱であった。「4665年生まれの在日2世は、ブルーカラー比率が高く、就職差別は深刻で、団塊の世代の日本人や後の世代の在日に比べ、確実にわりを食ってきた」ことが描かれる。同世代を生きてきた私として実感することだ。そのなか焼き肉屋やパチンコ店等で這い上がる在日の人々、日本人のヒーローとなった力道山は、「出自を隠して日本人を演じきる」姿勢を貫いたが、それ自体がナショナリズムと現実を生きることの苦悩を抱え込んでの戦いであった。日本が高度成長の波に乗り、団塊の世代が大学闘争に突入した68年に起きたのが、あの金嬉老事件。救いの手を差し伸べた知識人とその挫折。その軽薄さを茶化したのが、福田恒存の「解ってたまるか!」(浅利慶太演出)であったと描く。

高度成長、世界的な人権意識の高まりの中で、80年代には、在日韓国・朝鮮人を含む外国人にも、国民年金や児童手当などが適用されるようになり、86年にはついに国民健康保険が全面適用されるようになる。

「純」と「準」――。「在日の一部は薄れゆく民族意識を確かなものにしようと奮闘した」「通称名と本名、どちらを取ろうとわだかまりは残る。ジレンマを解消したところで、それは別のジレンマを生む。在日のアイデンティティーをめぐる戦いが行き着いた先は、必ずしもバラ色ではなかった」「民族意識を胸に、韓国や北朝鮮という祖国に貢献すべきか。将来の統一朝鮮を導く存在となるべきか。日本に定住する市民としての権利獲得に力を注ぐべきか。日本国籍取得は、憎き日本人との同化として責められるべきか。コリア系日本人として生きる道は否定されるべきなのか」――。70年代後半からアイデンティティーをめぐる様々な議論が盛んになっていく。本書が「在日韓国人になる」を表題としている問題意識が切実な生々しい問題として迫ってくる。そしてこの21世紀、社会は反転して分断とヘイトスピーチが跋扈し、平和と人権の21世紀とは全く異なる様相を呈している。著者は、その中で「敗北宣言はまだ早い」とし、冒頭に掲げた「ともに希望の歴史を編む努力が必要だ」と言うのだ。ぐいぐい迫ってくる著作。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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