室町幕府の創設を成し遂げた足利尊氏、その弟で実質的に幕府を興した足利直義、足利家の執事で幕府樹立の影の立役者・高師直の3人の結束と戦い、数奇な運命を描く。鎌倉時代末期から建武の新政、室町幕府樹立、南北朝時代の攻防激しい動乱の十数年を、人物を中心にして立体的に描き切る熱量あふれる力作。
幼い頃より庶子の日陰者として、一心同体、信頼の絆で結ばれた尊氏と直義。しかし尊氏は、「やる気に乏しく、弱気で逃げ腰で無責任でお人好し。使命感なしで執着なし」「とにかく人に対する邪気と言うものが一切ない。見事なほどに人柄が丸い」という性格で、「腑抜けの棟梁」「極楽殿」と阿呆呼ばわりされている。しっかり者で生真面目一本の直義は、「一体何を考えているのか」と、兄の怠惰さ、無関心に呆れながらも、懸命に支えていく。高師直も執事の立場に徹し、懸命に支えていく。
鎌倉幕府の末期、北条得宗家の独裁で鎌倉幕府の信用は地に堕ち、怨嗟の声が上がっていた。三人は幕府の粛清から足利家を守ろうと必死の戦いをしていたが、後醍醐天皇から北条家討伐の勅命が下り、反旗・討伐の決断をする。足利一族が得宗家に成り代わって鎌倉府を引き継ぐと考えたのだ。しかし後醍醐天皇は幕府そのものを潰し、朝廷の世を作ろうとした。足利家に幕府を引き継がせる気などさらさらなかった。建武の新政。鎌倉府が行ってきたそれまでの制度や決まり事を全てひっくり返したのだ。曖昧な態度で後醍醐天皇に好意を寄せている尊氏に苛立つ直義と師直は、怒りのなか、新生幕府の樹立を画策する。
「やる気なし、使命感なし、執着なし」の尊氏だが、なぜか「足利殿は懐の深い御仁である。その御器量は、大海の如し」と赤松円心、楠木正成、新田義貞など、歴戦の強者は好意を寄せる。その後の攻防は複雑で激しい。"朝敵"とされるが、「今の帝である大覚寺統も皇室なら、われらは持明院統を正当な皇室として担ぎ上げ、新しき錦の御旗を掲げよう(赤松円心)」――。建武3年(1336)、後醍醐天皇を一時的に降伏させた尊氏と直義は持明院統の新しい朝廷を成立させ、新たな武家政治の基本方針「建武式目」を制定、実質的な室町幕府が誕生する。不満とした後醍醐天皇は吉野に遷幸し南朝を建て、建武4年(1337)から南北朝の動乱期に突入する。足利一門とそれに与する武門は、独力で各自の領国を切り取り、統治権と軍事指揮権を持つことによって、後年の細川氏、斯波氏、吉良氏、上杉氏、赤松氏、今河(今川)氏などが形成される。打ち続く戦乱のなか、次第に直義と師直の亀裂が生じていく。それはやがて、観応の擾乱(1350〜1352)へと突き進んでいく。朝廷と公家、武士と一族、領地と財と権力争覇――。心から信頼しあい、結束の固かった3人にしても、いかんともしがたい時代の波に翻弄されていく。時代そのものの人知を超えた宿命と言えるであろう。
「真の武士とは、修羅道に生きる覚悟ができたもののことを言う。何かを得るためには何かを捨てる。平然と我が命を懸け物にできる大将に率いられてこそ、成るものも成る」「世に最も恐るべきは、悪人にあらず。己の正義を譲らぬ頑固者である。唯我独尊の道を一緒に夢に突き進む、わしや相州殿のようなものである」「およそ人の世において、最も始末に負えず、対応に困るのは、他者からのむき出しの敵ではなく、逆にそこぬけの好意であることを、この時ほどしみじみと感じたことはない。完全に毒気を抜かれ、もはや手も足も出なくなる」・・・・・・。絶体絶命の中での言葉だけにずしりと重い。
「天下の政道、私あるべからず。生死の根源、早く切断すべし」「五十路まで 迷い来にける 儚さよ ただかりそめの 草の庵に」――。享年54。とても、うつけ者の歌ではない。