吉宗の子・長福丸(後の徳川家重)は、呂律が回らず、指が動かず、尿を漏らす。歩いた後には、尿を引きずった跡が残るため、「まいまいつぶろ(かたつむり)」と呼ばれ、蔑まれ、廃嫡まで噂されていた。誰にも言葉が届かない家重であったが、ただ1人、その言葉がわかる大岡兵庫(後の大岡忠光、大岡忠相の親戚)が小姓となる。大岡忠相は兵庫に、「(家重の)目と耳になってはならぬ」と釘を刺す。あくまで「御口代わり」だけを行うこと。吉宗の時代には、側用人制は廃止されており、役目を超えた働きをすれば、必ず、疑惑と、嫉妬の渦に巻き込まれ、幕政の混乱を招くこと必至との考えからであった。大岡忠光は、その言葉を守り抜く。また身体は不自由であるけれども家重の聡明さがじわじわと浸透していく。そして第9代将軍となり、吉宗の目指した改革の治世が継続・発展していく。家重の「言葉が通じない」辛さは、飢饉に喘ぐ民の辛さとの共鳴の窓が開いたのだった。一心同体、それぞれの苦難を受け止め、耐え抜いたニ人の生き方は感動的で美しい。
「上様は、(田沼)意次といい忠光といい、人を見抜いて用いる御力が段違いにございます。ご自身ではおできにならぬことを、代わって為すものをしかとお選びでございます」「それがし、上様が汚いまいまいつぶろと言われて、どれほど悔しゅう思いましたことか」「そなたも莫迦の小姓あがりと噂されたそうではないか」「たとえ存分に話すことができても、思いが通じぬのが人の常だというではないか。ならば、己はもはや口がきけぬという苦さえもなくなった」「まいまいつぶろだと指をさされ、口がきけずに幸いであった。そのおかげで、私はそなたと会うことができた」・・・・・・。
家重は1760年に将軍退隠を宣下し、同じ月に正光は亡くなり、翌年の6月、家重も旅立った。短いといわれた将軍在位は15年に及んだ。