makinotarou.jpg「日本の植物学の父」とされ、独学で研究を極め、植物知識の普及にも尽力したとされる牧野富太郎。NHKテレビの朝ドラ「らんまん」のように天真爛漫、破天荒でアカデミズムから距離を置いた在野 の研究家とされる牧野富太郎。著者は「らんまん」の植物監修者だが、「本書は、牧野富太郎の人物像を考察するものでは、全くない」「科学者として捉えるならば、人物像やそれを取り巻く人間ドラマではなく、学術的に正確な情報、検証された業績、それが与えたインパクトなどで評価されるべきである」と言い、「科学の分野なのに、業績の記述も曖昧で定まっていない」「科学者で、これほど不確かな情報が一人歩きしている人物も珍しい」と自然科学の立場から考察している。

そこから浮かび上がるのは、「時間があれば、四六時中野山に出かけて植物を採集しまくる超一流の植物オタク」「全国の趣味家に愛され慕われ、『牧野ファン』のネットワークを作り上げた人物。牧野ほど世人とともにあった分類学者はいない」「日本のフロラ研究を先導、その草分け的存在」「牧野は標本の整理をほとんどしなかった。牧野の標本にラベルはなく、各標本の植物の同定すらもほとんどされていなかった。つまり、牧野の標本は、新聞紙に挟まれて、学名もつかないまま、無造作に束ねてあっただけなのである。その整理には、教官やスタッフが膨大な時間を費やした。特に採集地の確認は困難を極めた」「牧野が一流の趣味家であることは間違いないが、こうした振る舞いは一流の研究者のものとはいい難い」と言うものだ。

そして、「重複標本を含む牧野が所蔵していた標本は、あるいは40万枚だったかもしれないが、正しくは『牧野は、約5万5000点の維管束植物標本を採集した』ということになろう」「牧野は生涯に1369の学名を発表した、というのが最も正しいことになるだろう」と調べあげている。命名した植物・集めた標本の数が未だ定まらないのが実情であることヘの答えだ。

大学や教授たちとの間の確執から東大から文献や標本の利用を止めるように告げられた時、牧野は「長く通した我儘気儘 もはや年貢の納め時」との歌を詠んだという。面白い。牧野富太郎の伝記を書いた池波正太郎は、「世の中に息をしている限り、どんな人間でも世渡りの駆け引きに自分を殺さなくてはならないのが、常識とされているのだが、強情を通し抜いた彼は、弱いとか強いとかいうよりも、むしろ幸福な男だったといえよう」と言っている。これまた面白い。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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