tensai.jpg日本に襲いかかった大災害。その時、人はどう動き、歴史はどう変わったか。それぞれの人間ドラマを描く。

天文11(1542)の甲府洪水。甲斐国は谷の峡(かい)。甲斐国の国主となった21歳の武田晴信は、板垣信方らが隣国の攻略こそ大事とするなか、「甲斐千年の宿痾を癒やす大普請」として、築堤に乗り出す。霞堤の原型となる信玄堤。この築堤とともに河道改修や遊水地保全を行う。

明治29(1896)の三陸沖地震。田老村の漁師・四郎は、「海の男なら、大波が来たら向かっていけ」との言葉どおり正面から津波に向かって進み助かる。津波が来ない高台に仲間とともに移り住むが、時間が経つとともに、仲間は海に近いところに移っていく----。決して山に上がりたがらなかった老人と、決して浜に下りたがらなかった大工の親方と、山から浜へ節を曲げた船頭の号泣する声

寛喜2(1230)の大飢饉。執権北条泰時の頃の京都。下流から、米の荷を上げて京の街へ送り出す問丸の仕事をしている滝郎は米を買いまくって高く売ろうとする。大飢饉のなか京の人口は種籾まで食べてしまう地方の農民が流入して増加。滝郎は、ついに田舎から百姓を連れてくる違法の人身売買にまで手をつける。全国各地で農民の逃亡が続き、難民が流入する京都。飢饉は、断続的に数年続いた。

宝永4(1704)富士山噴火。この年は49日前に宝永の大地震(南海トラフ)があり、死者は3万人に及んだ。富士山噴火は新井白石の「折りたく柴の記」に「昼にもかかわらず空が暗く、蝋燭をともして講義をした」とある。左右対象の富士山に「宝永火口」が生じた。噴火の火口に最も近い須走村に生まれ育った与助は、「百貫与助」と呼ばれ、重い荷駄も運べる「馬追い」「馬方」。必死に逃げた先は浜松。須走村のひとつ東側の大御神村から浜松に逃げてきたおときに頼まれ、大御神村を訪ねることになる。驚くことに火口に最も近い須走村だけは、復興への力強さがあった。その理由とは

明暦3(1657) 1月の江戸大火、振袖火事。キリスト教を信じて牢に入れられた権右衛門らは解放され、「鎮火したら、浅草の善慶寺へ出頭せよ」と言われる。千住大橋を渡ろうとするが、浅草門は開かない。「あ、江戸がない」――権右衛門は、江戸が巨大だったからこそ大火なのであり、人のいるところに天災があるのだと感じるのであった。そして島原の乱と老中・松平伊豆守信綱と南蛮絵師が絡む。

昭和38(1963)の裏日本豪雪。練馬の小学校教諭の鳥井ミツは正月休みで新潟県に帰る。そこで豪雪。始業式となっても帰れず、やっと乗った急行「越路」の中に閉じ込められる。死者228名、行方不明者3名、住宅全壊753棟という大被害。当時は裏日本という言葉が普通に使われた。「現代は、天災でないものを天災にした。天災と人災の区別をなくした」と言う。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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