rosia.jpg「日露戦争とは何であったか」「ロシア、イギリス、日本の陸軍、海軍の思惑は」「旅順攻略戦、奉天会戦の実態は」「乃木将軍は愚将であったのか」「司馬遼太郎が描く『坂の上の雲』は史実か」「日露戦争(陸戦)の本当の功労者は誰か」――これらを徹底して剔抉する。「『坂の上の雲』は陸軍の旅団長と海軍参謀の兄弟の物語、すなわち少将と中佐の手柄話である。しかし日露戦争に従軍した日本人の多くは、無名な一介の兵士たちである。召集され、命じられ、行軍に喘ぎ、泥水をすすり、脚気や凍傷に苦しみ、堅牢な要塞に突撃して斃れ、厳寒の満州の荒野に屍を晒した八万八千余の将兵一人一人の戦死の様子を、彼らの視点から記録しておきたいと、私は願った」と言う。

「恐ロ病が生んだ嫌ロ感情(三国干渉で生じた敵愾心)」「義和団事変」「満州を占領したロシア軍の脅威(ロシア軍の満州占領長期化、伊藤博文の日露協商論、クリミア戦争とボーア戦争、日英同盟成立)」「開戦への道(日露間の疑心暗鬼を昂じた偽りのイギリスのデュカット中佐報告書、クロパトキン来日、日露交渉決裂)」「日露戦争の緒戦(旅順口水雷夜襲攻撃、金州・南山の戦い)」「海軍が旅順占領を要請(焦る海軍と急ぐ陸軍)」「旅順第一回総攻撃の失敗」「旅順第2回総攻撃(ナマコ山を占領しロシア軍艦を攻撃、ドイツ・メッケル軍学の陥穽)」「旅順攻略(児玉源太郎が東北正面攻撃を主張、203高地へ攻撃目標を転換、秋山真之への乃木司令部の怒り)」「遼陽会戦(即時追撃を主張した参謀井口省吾、名参謀松川敏胤)」「沙河会戦(クロパトキンの大逆襲、花の梅沢旅団)」「奉天会戦」「東郷平八郎の日本海海戦」「乃木希典の自刃」の各章。現場の生々しい実態、史実を鋭く描き出す。

「戦功は黒木為楨大将、奥保鞏大将、野津道貫大将らと、彼らの薫陶を受けた藤井茂太少将と落合豊三郎少将、それに伊地知幸介少将、松川敏胤大佐らにあり、なかんずく最優秀者は乃木希典大将である」「旅順攻略の原動力になったのは、児玉ではなく、乃木の人格である。乃木はは愚将でも無能でもない」「要するに乃木軍の旅順攻撃は『焦る』海軍と、『急げ』と言う参謀本部に振り回された、矛盾だらけの作戦計画だったのである」「特に金州・南山戦、203高地攻防戦、奉天会戦と休む間もなく、最大激戦地へ投入され、最も過酷な運命を担い、最も激しく消耗した東京第一師団の将兵の間に、戦争で働き手を失った農家の筆舌に尽くしがたい窮状と、陸軍上層部に対する根深い不信が語り継がれた(この伏流水は2.26事件となって奔出する)」「(松川や伊地知など)わが国の危急を救うのは、こういういぶし銀のような地味な男なのだ」。そして「要するに司馬遼太郎は、伊地知ひいては乃木を無能・愚将と罵り、両人の顔に泥を塗るために『坂の上の雲』という小説を書いたとしか私には思えない」と激しく言う。
それにしても、乃木希典が「自刃して、多数の戦死者を生じた罪を償いたい」と申し出て、天皇が「今は死ぬべきときでない。卿もし死を願うならば、朕が世を去りてのちにせよ」と止める。乃木は晩年に至るまで、戦死者の遺族を訪ね歩き、手をついて詫びたという。

肉弾戦の日露戦争と、兵士の魂が迫ってくる。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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