takekiasita.jpg「朝日将軍」木曽義仲の猛き生涯を描く。真っ直ぐで鮮烈であるだけにもの悲しい。「驕る平家を打倒し、人が人として生きられる世を創る」ことを目指した木曽義仲は、兵を挙げてわずか4年足らずで滅びていく。芥川龍之介は「木曽義仲論」で言う。「彼は其炎々たる革命的精神と不屈不絆の野快とを以て、個性の自由を求め、新時代の光明を求め、人生に与ふるに新なる意義と新なる光栄とを以てしたり。彼の一生は失敗の一生也。彼の歴史は蹉跌の歴史也。彼の一代は薄幸の一代也。然れども彼の生涯は、男らしき生涯也」「彼の一生は短かけれども彼の教訓は長かり」と言う。しかし盛者必衰といってもあまりにももの悲しい。

木曽谷を本拠とし信濃の国で屈指の勢力を誇っていた武士・中原兼遠の養子として育った駒王丸。兼遠の息子たち次郎兼光、四郎兼平、五郎兼行との兄弟として過ごすが、実は「駒王丸殿はいずれ、信濃を束ねる御大将となられる方」「源氏の棟梁・源為義の次男・源義賢の子」であった。保元の乱、平治の乱を経て世は平家の天下。「俺は、貴族の世でも武士の世でもない新しい世を創りたい。人が人として生きられる。俺は平家討つ」――木曽義仲は拠点を東の佐久に移し兵を挙げる。関東では、伊豆の頼朝が挙兵し、勢力を広げ始めていた。やがて京を出陣した平家の頼朝追討軍7万が駿河に入り、富士川の西岸に陣を布いたが、戦して撤退する。平清盛が死に、信濃を固めた木曽義仲達は、越後との横田河原合戦で勝ち、義仲の勢力は一気に広がる。頼朝は平家と雌雄を決する前に、義仲を討たねばならないと考える。源氏の棟梁は、世に2人も必要ないのだ。そして両者の激突をかわすため、義仲の嫡男・ 義高を頼朝の息女・大姫の婿として事実上の人質として差し出すことになる。

義仲は進むしかなかった。平家を倒し義高を取り戻すその日までは何があろうと立ち止まるわけにはいかない。倶利伽羅峠で平家軍を破り、西へ進む義仲の軍は膨れ上がっていく。そして京都に入り、とうとう平家を西へ追い落とした。しかしそこは「魔都」だったのだ・・・・・・。

法皇は、「頼朝と義仲は、いずれ必ず決裂する」「木曽、鎌倉、平家、平泉。この4者が互いを牽制しあい、結果として均衡を保つ。武士の中に、突出した力を持つものが現れることは王家のためにならない」と頼朝に使者を送るなど画策する。平家軍は、再び東上を始める。京都には飢饉で食べ物がなく、「木曽の山猿に、不作法者にどうして支配されるのだ」「あんたらが来てからうちも京も無茶苦茶や」の声が充満し、7万といわれた木曽軍も落ち目と見ると離れていく武士が次々離れ、見る影もなくなった。

そして「全軍、力を振り絞れ。目の前の敵を切り崩し、皆で故郷へ帰るぞ!」・・・・・・。巴御前、樋口兼光、今井兼平、落合兼行、楯親忠、葵 ら仲間との信頼は凄まじい。それ故の体を張った戦い振りは目に浮かぶようだ。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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