慶応4年(1868) 1月、鳥羽伏見の戦いで幕府軍を破った新政府軍が江戸に迫る。勝麟太郎と西郷隆盛はそれぞれの思惑を抱きつつ「江戸無血開城」を成し遂げる。そこで多くの町人も交えて結成された彰義隊。上野寛永寺に立てこもるが、大村益次郎が指揮する最新兵器を駆使する新政府軍に、わずか半日で敗北する。勝、西郷、山岡鉄舟、益満休之助といった敵味方でありながら江戸無血開城を成し遂げた者たちの、強固な絆を様々な角度で描くことは多いが、この「雨露」は若き彰義隊隊士の葛藤と運命を生々しく描く。彰義隊とは何であったか。なぜ名もなき彼らは無謀な戦いに身を投じたのか。江戸の庶民は、なぜ彰義隊を称賛し味方をしたのか。歴史の残酷さと、激流の中で揺れ動く心、修羅場の濁流に飲み込まれる時の人間の呻き声が聞こえてくるようだ。
彰義隊(義を彰かにする隊)の中心となった天野八郎と、渋沢成一郎。「返す返すも残念。徳川の屋台骨が揺らいでいるならば、新たに立て直しを図るのが、主家に対する武家の務めではないか。しかし、薩長は国を思うのではなくて、徳川一家を潰すことに血道を上げている。我らの敵は、官軍にあらず。傲慢という衣を纏った薩長軍だ」と天野は武士としての道を言う。渋沢は「家臣として慶喜と徳川を守る」という意思を貫こうとする。江戸の町には薩長の乱暴・狼藉に対する反感が充満していた。慶喜はどこまでも恭順の姿勢を貫いており、「我らが見境なく血気に逸ることは、すなわち、我らの首を絞めることにもなりかねない。武力で薩長に当たれば、お上の意志を潰すことになる」との逡巡もある。「お上を守り、徳川を守り、江戸を守る」と言っても、それぞれの思惑は違い、複雑であった。
そうしたなか、臆病者の武士・小山勝美は兄・要太郎に言われて彰義隊に入る。絵を描くのが好きで、浮世絵の歌川国芳の弟子・芳近に学んでいた。父に軟弱を責められて勝美は言う。「私は確かに兄上に連れられ、彰義隊に入りました。何のためであるのか全くわからず。江戸は火の海にはならなかった。代わりに、江戸城は薩長の手に落ち、お上はお発ちになった。薩長率いる新政府軍は既に江戸にいる。私は、絵筆を取り戻すために彰義隊におります。小銃も刀も持てない人々が再び安心できるように・・・・・・。我ら武士は己れの意地を通すだけのものではないと私は思っている」・・・・・・。
そして、5月の雨と露のなかでの阿鼻叫喚の決戦。降り続く砲弾。鈍く不気味な地響き。飛び散る火。勝美は、「やはり戦ってはいけなかったのだ」「武士たちは、義を掲げ、崩壊する主家と運命を共にする潔さに、自分たちも酔いしれた。それを江戸の庶民は歓迎し称賛した。だから、勘違いしたのだ。驕ってしまったのだ」「非力ながらも、江戸を守りたいと思ったからだ。命を落とすことがあったとしても、構わないとわずかでも思った」と、思いは揺れに揺れる。すべてのものが、歴史の激流に翻弄され、深い傷を負い、明治を迎えたのだ。名もなき者たちが激しい葛藤のなか戦いに殉じた姿を赤裸々に描く力作。