teiseisuru.jpg大変刺激的で、面白い(目の前がぱっと開ける)著作。「訂正する力とは『考える力』ということでもある。本書はなによりもみなさんに『考えるひと』になってもらいたいと思って書いています」と言っている。「なにも考えずに成功している人」は確かに多いが、現代社会に「思考停止」「問題を深く考え続けない」「哲学不在」が充満している限り未来は開けない。ウィトゲンシュタイン、トクヴィル、ルソーなどを自在に使いながら・・・・・・、「訂正する力」の意味と重要性を様々な角度から示す。学生時代、激しい学生運動の中で「非政治世界の構築」を掲げて戦ったこと、政治の中で制度改正や法改正などに格闘したことを思い出した。

政治と金、デフレ脱却への経済戦略、米中対立の中での安全保障・・・・・・。「訂正する力」の重要性は日常だ。「訂正する力」とは、「過去との一貫性を主張しながら、実際には過去の解釈を変え、現実に合わせて変化する力――過去と現在をつなげる力」「持続する力であり、聞く力であり、記憶する力であり、読み替える力であり、『正しさ』を変えていく力」である。「リセット、革命」でもなく、「絶対変わらない、頑な、ぶれない」でもない。激動する社会を直視し、「現状を守りながら、変えていく力」が「訂正する力」だ。「自分はこれで行く」「自分はこのルールをこう解釈する」と決断する力のことだが、今の日本にそのような決断をできる人があまりないと嘆いている。私は、「政治はリアリズムであり、現実を直視した臨機応変の自在の知恵である」と言ってきたが、「訂正する力とは、現実を直視する力。現実に対応しながらも、同じ理想を守っているんだと『再解釈』しながら前に進むことだ」と東さんは言う。そして、「互いの顔色を見て」「空気の支配するまま」「正義を掲げる思考停止」「対話を拒否し相手に勝つ論破力」は、訂正する力とは対極にあると言う。あらゆる対話の原点にある力なのだ。ウィトゲンシュタインの言語ゲーム論、「ゲーム(遊び)とは、人間の言語的なコミュニケーションの全体を覆う概念」に連なっていく。

そして「人間は『じつは・・・・・・だった』の発見によって、過去を常にダイナミックに書き換えて生きています。よく生きるためには、この書き換えをうまく使うことが大事です。それが訂正する力ということです」と、そのダイナミズムを提示する。人口減少・少子高齢化、経済の凋落、深刻な国際情勢に直面している時、リベラル派がリセットを望んでいるようだが、まさにここで「訂正の考え方をとった方が良い」と指摘する。

面白いのは「訂正する力とは文系的な力」と言う。文系の学問は「じつは----だった」の学問で、過去の著作を引っ張り出し(例えばマルクス、斎藤幸平の「人新世の『資本論』」)、新たな視点から解釈して読み直すこと始めばかりやっている。理系はニュートンを読み直すなどしないと言っている。私自身、そう思っていたから、私は理系ということになる。また「訂正こそが人間の人間性を支えている」であって、ChatGPTは言葉の世界しかないので訂正ができない。さらに修正する力をうまく使って生きるためには「周りに余剰の情報の場を作ること」「柔軟なひとを周りに集める小さな組織や結社を作り、親密な公共圏を作る」ことの大切さを示している。

これはトクヴィルにつながるが、「彼は民主主義の精神とは喧騒のことだと考えた。アメリカではいろんな人間がいて好き勝手に喋り、出版の自由も結社の自由も保証されている」と言い、「平和とは喧騒があるということだ。その喧騒の正体は、社会が政治に完全に支配されていないことにある」と指摘する。「平和とは、戦争の欠如であり、つまりは政治の欠如である」。そして戦後日本は、「脱政治的な活動」の領域が豊かだった国、政治の外側に豊かな「喧騒」の世界をつくり続けてきた国ではないか。「ぼくは戦後日本の平和主義をそんなふうに『訂正』してみたいと思う」と言うのだ。そして親鸞の自然(非政治)と日蓮の作為(政治)、ルソーの中に同居する自然と社会契約の矛盾撞着の思想を紹介する。

敵と友に二分し、極論ばかりの分断・抗争の21世紀の世界――「訂正する力の歴史を思い出すことが、失われた30年を乗り越え、この国を復活させる一つのきっかけになる」と結論付ける。 

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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