yamake.jpg「明治国家と権力」が副題。明治国家で圧倒的な政治権力を有し、明治日本を"支配"した最高実力者の山県有朋(18381922)。その力の背景には長州閥陸軍や山県系官僚閥と明治天皇からの信頼があった。幕末から明治、大正の時代とリーダーを、山県に即して見ると極めて興味深い姿が見えてくる。

長州藩、松下村塾の尊王思想の中で育った山県有朋。久坂玄瑞、高杉晋作等の死後、勝海舟が長州藩の5指に数えた木戸孝允、広沢真臣、伊藤博文、井上馨、山県有朋らが台頭する。そして明治――陸軍卿・内相として、徴兵制・地方自治制を導入し体制の安定に尽力する。「西郷の悲劇的な運命に直面して、山県の近代軍建設への使命感はいっそう強まっていった。情念ではなく、法治国家の枠組みの中で駆動する軍隊、つまりは官僚制的軍隊の建設こそがこれからの日本には必要なのだという確信である」と言う。187710月、東京に凱旋した山県は広大な邸宅・椿山荘を拠点とする。西郷隆盛が横死し、木戸孝允が病没、大久保利通も凶刃に倒れ、政治の第一線に伊藤博文と山県、大隈重信が立つことになる。山県の軍事革命観は、「強兵あって初めて『国民の自由や権利』がある。軍事力の後ろ盾がなければ、経済成長もおぼつかない」という富国強兵論であり、対外膨張論とは一線を画すものであった。また自由民権運動が藩閥政府を専制政府とみなしている限り、板垣率いる自由党の人民武装論とは徹底対決する。

1889年、内閣総理大臣となる。首相として民党と対峙し、時に提携し、日清戦争では第一軍司令官として、日露戦争では参謀総長として陸軍を指揮した。その間に枢密院議長を務め、長州閥陸軍や山県系官僚閥を背景に、最有力の元老として、長期にわたり日本政治を動かした。激動する時代の中で、これほど長く政治の中枢にあり続け、ポピュリズムに堕すことなく突き進んだ生涯は驚嘆すべきものだ。苦渋の決断も日常であったであろう。日露戦争の決断、「この時、山県も伊藤もそして明治天皇も『懸崖に臨む』、すなわち、切り立った崖の淵に立って谷底を覗き込む心境であった」と描く。その頃からはまた長州の後輩、桂太郎や児玉源太郎との不和が顕著になってくる。「明治の終焉――190512年」「世界政策、デモクラシーとの対峙――191218(大正政変、桂太郎の離反、山県系官僚閥の変容」などが描かれる。

「山県の権力基盤は官僚制(陸軍)にあった。山県は陸軍、議会(政党勢力)、内閣とのあいだで、巧みにバランスをとりながら、自らの政治権力を行使していった。敵対勢力は、当初は自由党、次いで、対外硬派や社会主義勢力だった。山県にとってそれは国家防衛そのものであり、敵対勢力はそれを『公私混淆』と非難した」「日露戦争までの山県の陸軍軍備拡張案は比較的抑制されていた」「現実外交では山県の意見は相当抑制的であった」「山県は大衆から超然としていたがゆえに、ポピュリズムとは無縁だった。そのため、対華21ヵ条要求のような露骨な帝国主義外交、あるいは革命外交と距離を置くことができた」と言う。

現在の世界を見るときに、「山県の死から100年を経て、彼は再び召喚されつつあるように見える」と結んでいる。「国の形」がいま大きく問われているからだ。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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