yasasii.jpgスリランカ人男性・クマラと結婚した日本人女性・ミユキとその娘・マヤが、日本の厳しい出入国管理制度に翻弄されていく様子を描く。入管制度の仕組みが、言葉も十分わからない彼らにとっていかに過酷なものか。そのことが息苦しくなるほど日本の私たちにとって迫ってくる。「偽装結婚ではないか」が焦点となるが、外国人労働者として入国し、失業した場合にいかに大変か。立場が不安定である上に、オーバーステイの問題、「審判」「退去強制、強制送還、5年間の入国禁止の恐怖」「収容所の厳しい環境」「在留特別許可の激減」「出生主義と血統主義、日本で生まれても日本人ではない問題」「収容所での電話の不許可、病気になっても十分医療が受けられないこと」「難民を保護することと外国人を管理するという同じ入管の抱える問題(入管から独立した難民認定機関の必要性)」「非正規滞在の仮放免では働けない問題」「非正規滞在では健康保険が使えない、入れない」・・・・・・。次から次へと難問が「小さな家族」におそいかかる。「強制送還されるか、死ぬか、どちらかを選べと言われている気がする」と追い込まれる。「出会って好きになった人と、ずっと一緒に暮らしたいだけなのに」・・・・・・。

スリランカの民話の話に「優しい猫」がある。クマラがマヤに語る。「親を猫に殺された子ネズミが、猫に窮状を訴える。それを聞いた猫は後悔する。そして自分にも子供がいるからと、一緒に育てる」という話。この話はマジョリティーとマイノリティーの話に思えるという。強い者、大きい者たちが、ネズミの真摯な訴えに耳を傾けて気づくということ。「猫の気づき、猫の覚醒」と指摘する。外国人との共生社会に向けて、外国人労働者問題は最も重要なものだ。この3年で大きく変わってきたと思うが、より本格的に具体的に急速度に対応しなければならないと思う。


keiei.jpg「構造的問題と僕らの未来」が副題。「社会学は社会の複雑な現象・変容をどう捉えるか。『構造的問題』として理解することが重要だ」「社会の『底』が抜けてしまっている」「『安全、快適、便利』なのになぜ生きづらいのか」との認識がある。そして「汎システム化とヒューマニズムの持続可能性の危機にいかにして対峙すべきなのか」という問題意識がある。

「生活世界」と「システム世界」――。人間らしい情の交いあう顔見知り同士の「生活世界」が、匿名性とマニュアルに従う「システム世界」に侵食されて、やがて完全に取って代わる汎システム化、システム世界の全域化になっていく。そこでは、流動的な労働市場で、社員や店員は「過剰流動性」と「入れ替え可能性」にさらされる。大企業のエリート社員、エリート官僚も同じで、「自分は一体何者であるのか」との「人間存在をめぐる不安」「孤独」から逃れられなくなっている。「安全、快適、便利」の一人ひとりの欲望の行き着く先が、この「システム世界の全域化」であり、「感情の劣化」「不安・孤独の暴発」という人間存在の変容をもたらしている。孤独に耐えられないことから無差別殺人事件などの悲惨な事件が起きる。

それに加えて、テクノロジーの進化、ネット社会の加速が、本来DNAに刻まれてきた人間性をも押し潰し、「仲間としての人間関係」「われわれ意識」を遮断し、人間関係は「損得化」に堕していく。さらに社会には秩序が必要であり、そのための統治が必要だが、「『まとも』に生きようとするより、『うまく』生きようとする『あさましい』『損得野郎』が溢れてくる。社会と人間の劣化がとめどもなく進む」と指摘し、嘆き、弾劾する。まさに「社会の『底』が抜けてしまっている」わけだ。国民=仲間から始まった国民国家は希薄化し、個人の主体性を頽落させて、民主政を世界中で機能不全に陥れさせ、社会の統治をいっそう困難にしているのだ。

それでは「システム世界の全域化と共同体の空洞化にどう向き合うか」――。ヨーロッパの知識人たちは伝統的にシステムを警戒し、スローフード運動などを通じてシステム世界の全域化に抗ってきたが、濁流に飲まれて挫折してきた。対称的アプローチをしたのがアメリカで、成員が「快・不快」で動く動物であっても社会が回るような統治のあり方を追求した。マクドナルド化をディズニーランド化によって埋め合わせるマッチポンプ的発想だ。これをさらに進めようとしているのが、新反動主義者や加速主義者だが、ともに我々の望むところではない。同感だ。「快・不快」の動物的性質を利用した統治よりも、人々の善意と主体性を基礎に置く統治を望む。「うまく」生きる人よりも、「まとも」に生きる人が溢れる社会こそ、「よりよい社会」だ。「テクノロジーやシステムを全否定はしない」「小さなユニットから再出発し、食やエネルギーの地産地消をテコにテックやシステム社会と共存する形で、(疑似)共同体自治を確立せんとする」といい、その波及を展開したいという。政府や市場を否定することなく、中間集団の(再)構築、小さいユニットから「われわれ意識」を取り戻すという提案だ。これには当然、人々をエンパワーするリーダー、利他的・倫理的で信頼されるリーダーが必要だが、「ミメーシスを起こす人間たれ」と講義を受講する人に呼びかける。社会と人間の変容にどう立ち向かうか。指摘しているのは考えているうえでのリアルである。


setuzokusi.jpg文章も書き、演説もし、会話も人一倍してきたと思うが、「接続詞」を意識して考えたことはなかった。本書を読んで、改めて「接続詞」を考えてみると、確かに「文章は接続詞で決まる」ことが浮かび上がる。「プロの作家は接続詞から考えます。接続詞が、読者の理解や印象に特に強い影響を及ぼすことを経験的に知っているからです」と言う。名人芸というか、魔法というか、本書で示された夏目漱石の「坊ちゃん」「それから」、アガサ・クリスティーの「そして誰もいなくなった」、梶井基次郎の「檸檬」、谷川俊太郎の「そして」等を見ても鮮やかさに喝采したくなる。

「接続詞が良いと文章が映える」「4種10類に分ける――論理の接続詞(順接、逆接)、整理の接続詞(並列、対比、列挙)、理解の接続詞(換言、例示、補足)、展開の接続詞(転換、結論)」「文末の接続詞」「話し言葉の接続詞」「接続詞のさじ加減」「接続詞の戦略的使用」などが、丁寧に解説される。

「話し言葉の接続詞」は文章とは違うが、演説と会話はまた違う。演説は接続詞が多かったりするとテンポが狂う。会話は主語がなくても通じる。演説も会話もライブだから、場面転換を突然行っても相手は話に必ずついてくる。しかし、「文章は接続詞で決まる」は納得した。


tonosama.jpg幕末から明治初期、各大名がいかに苦闘したか。江戸三百藩は攘夷と開国、佐幕と倒幕、公武合体政策と大政奉還と王政復古の大号令(新政府樹立宣言)、戊辰戦争での各藩の決断、そして明治に入っての版籍奉還、廃藩置県などで揺れに揺れた。藩が一瞬のうちに消滅して、「殿様」はどう明治を生きたか。

「維新の波に抗った若き藩主たち」――。会津藩主・松平容保(朝敵にされた悲劇の大名、不幸の始まりは松平春嶽に要請されて京都守護職を引き受けたこと)、桑名藩主・松平定敬(松平容保と行動を共にした実の弟)、請西(じょうざい)藩主・林忠崇(藩主自らが率先して薩長と戦う。一時は農民になった)、紀州藩主・徳川茂承(敗走した旧幕府軍兵をかくまい、新政府から敵のような扱いを受けた。陸奥宗光に助力を求める)・・・・・・。

「徳川慶喜に翻弄された殿様」――。水戸藩主・徳川昭武(兄徳川慶喜の身を案じた仲の良い16歳も年下の弟。趣味に生きた晩年)、福井藩主・松平春嶽(徳川家存続のために奔走するが徳川慶喜に裏切られ続けた。坂本龍馬の理解者)、土佐藩主・山内容堂(戊辰戦争の勝者だが、新政府のやり方に不満、酒浸りの晩年)、尾張藩主・徳川慶勝(実の弟が松平容保と松平定敬。弟たちと敵味方で刃を交えるが、後に弟たちの助命活動。倒幕に動き、諸藩を新政府の味方につけたが故に、新政府が苦もなく江戸に到達できた。趣味の写真を残した)、静岡藩主・徳川家達(幼くして徳川宗家を継いだ16代目当主。徳川慶喜を嫌い、明治では大いに政治的手腕を発揮し、天皇から組閣を命じられたほどの大政治家。貴族院議長を31年間)・・・・・・

「育ちの良さを生かして明治に活躍」――。徳島藩主・蜂須賀茂韶(祖先の不名誉な噂を払拭するために外交官や官僚として活躍)、広島藩主・浅野長勲(3人の天皇と心を通わせた最後の大名。財政を確保するために製紙会社を設立)、岸和田藩主・岡部長職(長年の欧米生活、外交官として活躍、東京府知事)、米沢藩主・上杉茂憲(沖縄の近代化に尽くそうとした名門藩主)、津和野藩主・亀井茲監(国づくりは教育にありを実践)・・・・・・。

どの人も波瀾万丈の人生。大変な決断と心労だったと思う。


kannsennsyou.jpg生老病死のなかでも身近にある「病」。「病」に対処しようとした時、文学や哲学はどう役割を果たしたのか。また文学と哲学はいかに「病」の影響を受けてきたのか。「病と宗教」「病と哲学」「疾病と世界文学」、そして「医学と文学」が描かれる。ギリシャから今日に至るまで、まさに古今東西、全てと言っていいほど内容豊かに書き上げる。

「序章 パンデミックには日付がない(地震のように一撃ではない。長期にわたって危険)」「第一章 治癒・宗教・健康」――。「神罰としての病に抗する接触する治癒神イエス」「免疫システムとしての仏教」「哲学に対して賎業の医術だった」・・・・・・。「第ニ章 哲学における病」――。「徳には適切なエトス=習慣こそがエチカ、つまり倫理と一致する」「医学は占いや魔術から発したが、ヒポクラテスらは医術を魔術から区別しようとした」「ヒポクラテスらは臨床的な立場から哲学という『気まぐれな思弁』を撃退しようとした」「16世紀のヴェサリウスの解剖学とハーヴィの生理学。17世紀のデカルトの哲学には、これらの研究が取り入れられている」「ベーコンの最上の善としての健康」「18世紀、カントは哲学と医学との分業を強調、インフルエンザは従来と異なる奇妙で不思議な流行病とした。ジェンナーの種痘をヴォルテールは評価したが、カントは自分の身体を恣意的に危険にさらすとして批判した」「哲学VS医学、唯心論VS唯物論、神学VS人間学が起きる」「ヘーゲルはコレラで死亡」――。そして細菌学のコッホ、免疫学のジェンナーにフロイトの精神分析が加わって大転換がなされていく。病因論のインパクトは大きく、フロイトも病因を特定しようと野心を持ったという。そして20世紀に入り、「哲学者は人体の究明からも感染症の課題からも遠ざかっていく」のが根本的変化と結論づける。

「第三章 疫病と世界文学」――。「デフォーのペストはロンドンの惨状を克明に描いた。疾病そのものよりも、錯乱とパニックに陥った集団の自己破壊、信用の崩壊、人間の愚かさを描く。しかもロビンソン・クルーソーと共通するロックダウンの閉鎖空間・監禁と別離のテーマ」「カミュのぺストは日付のないパンデミックの単調さと遮断と追放の感情」「罪と罰で描かれるコレラの悪夢」「コレラの恐怖を反映したドラキュラ」「ぺスト文学は共同体の閉鎖性に対し、コレラ文学はユダヤやアジアからの浸食という外部性の違いがある」「日本では結核文学が多くある。梶井基次郎と堀辰雄」・・・・・・。そして平成文学は、結核ではなく、心の病、多重人格、自閉症、LG BTAIと人間が描かれていく。

「第四章 文学は医学をいかに描いたか」――。「終章 ソラリスとしての新型コロナウィルス」――。そして「病のイメージに多くの仕事を任せてきた哲学と文学、その2つの歴史を新しいやり方で交流させ、お互いに感染させることが私の狙いとなりました。思うに、哲学や文学はそこにどれだけひどい世界が書かれていても、いつかは良いこともあるだろうという無根拠な希望を呼び覚ます力を持っています。本書がこの慎ましい希望の力の一端を読者に伝えることができれば著者としては本望です」と語る。

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プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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