令和となった2019年の著書。昭和50年9月20日、「ニューズウィーク」東京支局長のバーナード・クリッシャーのインタビューに、昭和天皇は自らの役割について、「戦前も、戦後も基本的に変わっていない。自分は常に憲法を厳格に守るよう行動してきた」と言った。統帥権をもち「神聖ニシテ侵スへカラス」の天皇は、西園寺公望によれば、「天皇が自らの一存で一つの内閣を倒し、また、新たな内閣を立てるということになれば、もはや立憲君主ではなく、専制君主である。それでは、大日本帝国憲法を定めた明治天皇の聖旨に背くことにもなるし、失政があった場合、その責任は直接、天皇が負わなければならないことにもなる。天皇や皇室は本来、『悠久の日本』を体現し、時々の権力から超然としていなければならない」ということだ。現実にこの難問は、張作霖爆殺事件をめぐっての田中義一内閣総辞職における西園寺公望と牧野伸顕の見解の相違という形で現れた。本書は「昭和天皇の声」と題するが、「昭和天皇の政治的決定」という大日本帝国憲法下の天皇の難しい位置と決断に真正面から迫っている。
昭和天皇が自ら政治的決定を下したのは三度だという。「天皇はのちに『自分は2.26事件のときと終戦のときの2回だけは、立憲君主としての道を踏みまちがえた』などと回想している」「田中義一内閣の総辞職を加えると、3度だけは天皇は憲法の条規に従わず、余人の輔弼を待たずにみずから決定したと考えられる」と言う。「2.26事件のときには、総理官邸が叛乱軍に襲撃され、岡田啓介総理大臣の生死も不明となって、政府の機能は麻痺した。その中、天皇は断固として叛乱軍討伐の方針を打ち立て、事態を収拾させた」「終戦のときには、首脳たちの意見が対立し、方針を決められなくなったときに、天皇はみずからポツダム宣言受諾を決定した。ことの当否は別にして、立憲君主としての『常道』は踏み外したという思いを天皇は持っていたのだろう」と言う。
本書は5章に分けて、その生々しい現実場面を描く。「感激居士」――。昭和10年(1935)8月12日の陸軍中佐・相沢三郎による永田鉄山殺害事件。激情型の感激居士への北一輝の影響、皇道派と統制派の対立・・・・・・。「相沢さん一人を見殺しにすることはできない」と、相沢事件は2.26事件の導火線となっていく。
「総理の弔い」は、昭和11年(1936)2月26日未明の2.26事件。岡田啓介総理、齋藤実内大臣、高橋是清大蔵大臣、渡辺錠太郎陸軍教育総監が即死、鈴木貫太郎侍従長が瀕死の重体と伝えられた。しかし岡田総理は生きていた。小坂曹長らが救出、天皇は「よかった」と繰り返し言った。「陸軍が躊躇するならば、私がみずから近衛師団を率いて鎮圧にあたる」とまで言った。
「澄みきった瞳」――。2.26事件で瀕死の重傷を負った鈴木貫太郎。妻・たかは、「とどめだけは、やめてください。どうか、やめてください」と叫ぶ。「とどめは残酷だからやめろ」と安藤輝三大尉が言う。その青年の瞳は恐ろしいほど澄み切っていた。「傷つけられた『股肱』として、天皇が真っ先に思い浮かべたのは、鈴木とその妻のたかではなかったか。蹶起軍を叛乱軍とみなし、徹底的に討伐しなければならないとする天皇の方針は、侍従長遭難の報告がもたらされた時点で、ほぼ決まっていたといえそうだ」・・・・・・。
「転向者の昭和20年」――。田中清玄が昭和20年12月21日、天皇に会い、「龍沢寺で山本玄峰老師のもとで修行いたしております。天皇陛下なしに、社会的、政治的融合体としての日本はあり得ません」と述べた話。
「地下鉄の切符」――。昭和20年8月14日、ポツダム宣言受諾の決断。「自分はいかになろうとも、万民の生命を助けたい。・・・・・・少しでも種子が残りさえすれば、さらにまた復興という光明も考えられる」・・・・・・。皇太子時代の渡欧のときの思い出の品「パリで乗った地下鉄の切符」。いずれも日本を背負った天皇の生身の姿が描かれる。