花森安治の青春.jpgNHK連続テレビ小説「とと姉ちゃん」は、ヒロイン小橋常子が練り歯磨きを作って家族のために儲けようとするところに来ている。そのモデルは、戦後に「暮しの手帖」を立ち上げ、国民的雑誌に押し上げた名物編集長・花森安治と苦楽を共にした盟友・大橋鎭子だ。

花森安治は1911年(明治44年)、神戸に生まれ、神戸三中、松江高校、東大の美学に進む。デザイン、カット、挿画、キャッチコピー、文章、宣伝、編集――その卓越さは、生来のものに更に磨きをかけた比類なきものといえる。しかし、その人生はくっきりと戦前・戦後と分かれ、断絶と継続。その陰影が本書の「花森安治の青春」だ。背景には、戦争、言論統制、滝川事件・美濃部事件、そして赤紙一枚で招集されて受けた兵隊いじめの「なぐる、なぐる、なぐる」「貴様らの代りは一銭五厘で来る」との私刑の毎日がある。

「欲シガリマセン勝ツマデハ」「足ラヌ足ラヌハ工夫が足ラヌ」・・・・・・。大政翼賛会宣伝部時代、広告制作を担った宣伝技術家・花森安治は日本宣伝道を走ってしまった。そして「人間は戦争に反射し、発熱し、疾走する動物なのだ」「戦争が起こってしまえば・・・・・・、人は戦争に加担する動物だ。一生懸命やってしまう動物だ」と・・・・・・。

そして戦後、大橋鎭子と妹たちと「暮しの手帖」を立ち上げる。「女性が太陽の暮し。女性が真ん中にある暮し。それが続けば戦争は二度と起こらないはずだ」「女性が太陽の暮し。それを実現するための暮しの工夫や暮しの提案をしよう」「もう時代と並走するのはやめよう。これからは揺るぎない暮しを作っていくのだ」・・・・・・。そして花森安治の国への批判、反戦意識は強く、激しくなっていった。青春時代の筆舌に尽くせぬ苦しい体験、にがい体験と反省、「女性が太陽」に込められた思い等がケタ違いに深く、内奥に刻まれていたことが伝わってくる。


ロンドン狂瀾.jpg1929年7月、田中政友会内閣が、張作霖爆殺事件(1928年6月)の処理に失敗して総辞職、民政党の浜口雄幸内閣が誕生する。1927年3月の金融恐慌の始まり(東京渡辺銀行)、1929年10月のニューヨーク株式市場の大暴落(暗黒の木曜日)でいよいよ世界恐慌へと突き進む。一方、1928年8月にはパリで不戦条約が調印される。そして1931年9月18日、奉天の郊外・柳条湖付近で満鉄の線路が爆破され(満州事変)、暴走が始まる。

そうした世界の激動のなか、1930年1月からロンドンにおいて日米英仏伊が参加して行われたのがロンドン海軍軍縮会議だ。浜口首相、幣原喜重郎外相が、主席全権として選んだのが首相経験者・若槻礼次郎。拒む若槻を説得し、随員としてピタッと付いたのが雑賀潤外務省情報部長だった。米英列強との激しい攻防のなか、雑賀は激しくも巧みな外交戦を展開し、起死回生の案をまとめ、ついに4月には海軍軍縮条約の調印に迄もっていった。

欧米列強との激烈な攻防、日本国内での軍部との軋轢(随員のなかでも山本五十六ら)、浜口内閣の「緊縮財政」と「協調外交」の2大柱への批判――。それは「弱腰外交だ」「緊縮財政が日本経済にもたらしたのは景気悪化だ」、さらには軍令部の反対を無視して軍縮条約を調印したことは「統帥権干犯」であるとの犬養毅率いる政友会等の追及を浴びる。批准をめぐって、元帥・軍事参議官会議、枢密院の審査の関門はさらに厳しかったが、浜口、幣原そして走り回る雑賀はそれを突破する。「外交は、武器を使わない戦争だ」「交渉を決裂させてはならない」との気迫、そして「これほどの不景気となりながらも、国際協調と平和、国民負担の軽減を謳う民政党政権と、そのためのロンドン海軍条約の成立を大衆は支援した。とりわけ国民が信頼したのは、浜口首相その人の清廉さと不退転の意思であった」という。国民の強い支持あっての成果だ。

しかし、浜口首相は11月14日、東京駅で狙撃され重傷を負い、31年4月内閣総辞職、8月に死去する。若槻礼次郎が組閣するが、関東軍の暴走を収拾できず12月には総辞職。あとを継いだ政友会の犬養も32年5月15日、射殺される。「二大政党制」「国際協調」「緊縮財政」は急転し、日本は戦争へと進んでいく。本書は日本の分水嶺となった浜口内閣の2年弱と最重要案件のロンドン海軍軍縮会議を緊迫感をもって描く。


金城ヤスクニ 280521④.jpg5月20日、21日、沖縄に行き、大激戦となっている沖縄県議選(27日告示、6月5日投票)の支援を訴えました。とくに厳しい情勢となっている浦添市の金城ヤスクニ氏に対し、松本哲治市長をはじめ、多くの方々と懇談、街頭でも支援を呼び掛けました。さらに沖縄市(金城ツトム氏)、那覇市・南部離島(いとす朝則氏、上原あきら氏)でも街頭や懇談・要請を行いました。

金城ツトム 280521.jpg観光客が一気に増加している沖縄。空港、港湾、湾岸西道路や浦添・宜野湾を結ぶ北道路、渋滞解消策、また今回の米軍属による女性死体遺棄事件の「実効性ある再発防止策」など多くの要望を受けました。頑張ります。


狗賓童子の島.jpg幕末を、松江藩の圧政下にあった日本海に浮かぶ隠岐「島後」から、じつに綿密に描いた重厚な書。時代の激流に離島であるがゆえに翻弄される島民。しかもその地に、大塩平八郎の挙兵(天保8年、1837年)に連座した西村履三郎の息子・数え15歳の常太郎が流人として到着するところから物語は始まる。

救民の旗を掲げた大塩平八郎の挙兵だけでなく、「江州湖辺大一揆」「福知山大一揆」の関係者・杉本惣太郎や豊之助も加わり、「数万の農民を凶作と苛政の塗炭の苦から救う」「義に斃れることを栄誉と信じ、誓って奸吏を退ける」という義挙が、底流に流れ続ける。

島民は激動にさらされる。「世間は"御一新"などともてはやしていたが、やはり何ひとつ変わっていなかった」「無能で怠惰な郡代や藩役人個々を追放したかったのではない。島民が、自ら生きることのできないような治世の仕組みそのものを拒否し、それを追放しようとした」はずなのに、島民の苦難は少しも変わらない。しかも島内は「出雲党」だの「正義党・尊攘派」などと敵視しあう緊迫した状況まで生まれる。

医師となった常太郎の「維新政府なるものに対する失望ばかりが募っていた」「31年前、父履三郎が大塩平八郎とともに挙兵したのはいったい何のためだったのか」との思いは、時代を超えて続く。「民の憂い募りて国滅ぶ」「民の欲する所 天必ず之に従う」ということだ。


家康、江戸を建てる.jpg天正18年(1590年)、秀吉によって江戸に転封された家康の見たものは、低湿地の広がる江戸とそこに建つお粗末な江戸城だった。家康はそこで東京湾に注いでいた利根川を太平洋へと流す大工事に乗り出す。第一話はこの「流れを変える(利根川の東遷、荒川の西遷)」だ。これを命ぜられたのが伊奈忠次、それを継いだ伊奈忠治。第二話は「金貨を延べる(天正大判を駆遂し、貨幣を制する小判の貨幣鋳造、金座)」で後藤庄三郎。

第三話は「飲み水を引く(七井の池―井の頭から関口、水道橋へと立体交差する神田上水工事)」の内田六次郎、大久保主水藤五郎、春日与右衛門。第四話は「石垣を積む(江戸城の石垣)」の"見えすき吾平"と"見えすき喜三太"。そして大阪夏の陣。第五話は「天守を起こす(白色の江戸城天守閣への家康、秀忠の思考)(漆喰)」は家康が何を考えたかに迫っている。

「国土」「土木工学」に携わってきた者として、また東京に住んでいる者として、きわめて面白かった。

プロフィール

太田あきひろ

太田あきひろ(昭宏)
昭和20年10月6日、愛知県生まれ。京都大学大学院修士課程修了、元国会担当政治記者、京大時代は相撲部主将。

93年に衆議院議員当選以来、衆議院予算委・商工委・建設委・議院運営委の各理事、教育改革国民会議オブザーバー等を歴任。前公明党代表、前党全国議員団会議議長、元国土交通大臣、元水循環政策担当大臣。

現在、党常任顧問。

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